いっていた。M氏の下宿の窓から矢田さんの部屋の窓をうつしたもので、屋根と窓と空があるばかりの写真であった。
矢田さんが私の何年かの動勢を手にとるごとく知っていたのはムリがない。あのアパートの私の部屋は管理人室の向いにあった。そこへ毎日、女が通っていた。M氏は私の動勢を、私がたとえば友人には秘密のことまで知っていたに相違ない。そしてそれはすべて矢田さんに語り伝えられていたであろう。
私はその三年間、あの人のことを思いつめていたのだ。そう云ってしまえば、たしかにそうだ。私の感情はあの人をめぐって狂っていた。恋愛というものは、いわば一つの狂気であろう。私の心にすむあの人の姿が遠く離れゝば離れるほど、私の狂気は深まっていた。
私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。
そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。
そして私が「いづこへ」の女と別れる時には、私はどうしてもこの狂気の処置をつけなければならないことを決意していたのである。求婚の形でか、より激しく狂気の形でか、強姦の形でか、とにかく何か一つの処置がなければならぬことだけは信じていた。
矢田津世子も、たぶん、そうであったらしい。二人は別々に離れて、同じような悲しい狂気に身悶えていたらしい。
あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。
あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。
テーブルをはさんで椅子にかけて、二人は睨みあっていた。
私は私のヒゲヅラが気にかゝっていたのを忘れない。その私にくらべれば、矢田さんは一つのことしか思いこんでいなかったようだ。やがて私をハッキリと、ひときわ睨みすくめて、言った。
「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」
私はそう驚きもしなかったようだ。はじめから、もう、たゞならぬものがあったから、我々が我々の最も重大なことにふれる日だということを、私はすでに知っていたに相違ない。
私が最も驚いたのは、一と言だけ怒鳴って、という、怒鳴って、という表現だった。あの人が通常使う言葉ではない。そこには気違いじみた殺気があった。私はあの人がすこし狂ったのじゃないかと思った。
あの人は目をとじていた。言うべきことを言ったのだ。そして、扉をしめて立ち去らずに、なお私の前にいるだけのことである。
こうなれば、私自身の言うべきことも、たゞ一つしかないだけのことだ。私は然し、あの人のように一途に決意をこめてはおらず、余裕があったので、愛とか恋という言葉の表現や発音が、間の抜けたバカげたものになりはしないか、気がゝりで、言葉の選択と表現法に長くこだわる時間がすぎた。
「僕もあなたを愛していました。四年間、気違いのように、思いつづけていたのです。この部屋で、四年前、あなたが訪ねてこられた日から気違いのようなものでした。いわばそれから、あなたのことばかり思いつめていたようなものです」
私がこう言い終ると、あの人がスックと立ち上ったように思ったが、実際は、あの人が顔を上げたゞけなのだ。その顔が青ざめはてて、怒りのために、ひきしまり、狂ったように、きつかったのだ。
「四年前に、なぜ、四年前に」
変に、だるく、くりかえした。
「なぜ、四年前に、それを仰有《おっしゃ》って下さらなかったのです」
そして、かすかに、つけ加えた。
「四年間……」
すると、あの人は、うつろな目をあけたまま、茫然と虚脱し、放心しているのだ。
私はたぶん色々な悲しいことを思ったであろう。
何を考え、何を云ったか、あとはもう、私は殆ど覚えていない。
「外へでましょう」
と私が言って、出たのを覚えている。私は身も心も妙にひきしまり、寒気の抵抗の中で二人で歩きつゞけていなければならないような気持であった。もう日暮れであった。寒い風がふいていた。
私たちは、蒲田から大森へ、又、大森から大井まで歩いた。
★
大井町で別れると、その時から、私はもう不安と苦痛に堪えがたい思いであった。たしか三日のあとに逢う約束であったと思う。三日という長い時間が息絶えずに待ちきれるか、私は夜もろくに眠れなかったが、そのような狂気について、私はもはや追想の根気もなければ、書きしるしたい気持
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