津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。
 矢田津世子は、別れた女の人に悪いじゃないの、と言うのであった。そんな義理人情、私はさりげなく返答をにごしているが、肚では意地悪くあの人の言葉の裏の何ものかを見すくめて、軽蔑しきっている。
 又Oさんに悪いから。Oさんは自殺するから、と言った。あの人と女流作家のOさんは友人以上に愛人であった。あの人と私のことが判ると、Oさんは自殺するであろう、というのだ。もとより私はそんな言葉は信じていない。
 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。
 この女流作家が怖れているのは、私の別れた女への義理人情や、同性愛の愛人へのイタワリなどである筈はない。
 この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。
 彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。
 然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。彼女は叫んだ。
「私は女流作家然とみすぼらしい虚名なんかに安んじて、日本なんかに、オダテラレ、甘やかされて、いゝ気になっていたいなどゝ思ってはいないんです」
 そして、日本も、又、すべてのものを捨てゝ、満洲へ行ってしまいたいのだ、という。
 嘘だ。大嘘、マッカな嘘である。
 私は冷めたく考えた。事実、私は卑屈そのものでもあった。彼女の心は語っている。私の貧困と、私の無能力が、みすぼらしくて不潔だ、と。よろしい。私は卑屈に、うけいれる。じっさい、私は不潔で、みすぼらしい魂の人間なんだ。然し、そういうあなたの本心はどうだ。あなたこそ、小さな虚しい盛名に縋りついているんじゃないか。その盛名が生きがいなんだ。虚栄なんだ。見栄なんだ。その虚栄が、恋心にも拘らず、私の現実を承認できないのじゃないか。
 名声も、日本も、すべてを捨てゝ、満洲へ去りたいなどゝ虚栄児にも時には孤独者の夢想ぐらいはあるだろう。
 だが、すべては、私のワガママであったと思う。私は卑屈であり、卑劣であったが、思い上っていたのである。
 私があるとき談話の中で「女」という言葉を使ったとき、「女の人」と仰有い、とあなたは言った。私はヘドモドして、えゝ、ハア、女の人、うわずって言い直して、あやまったりしたが、私は然し、口惜しさで、あなたを軽蔑しきっていた。
 つまり私が、知り合いのさる女人をさして、その女が、と云った。すると矢田津世子は、その女の人と仰有い、と言うのだ。私の言葉づかいは粗暴無礼であるが、その女が、その女の人に変ったところで、その上品が何ものだというのであろう。
 イヤらしい通俗性、イヤらしい虚栄、それがあなたのマガイのない姿なのだ。そしてそれが、単に虚名をもたないばかりで、時計塔の住人を猿のようなミジメなものに考えさせているのだ。
 私は然し、その後の数年、物を書くとき、気がゝりで困ったものだ。その女、ではいけなくて、その女の人でなければならぬような、デリカシイのない言葉づかいをウッカリやらかしていないかと気がゝりで困ったのだ。
 そして私は、あさましいことに、女という字を書くたびにウッとつかえて、わざわざ女の人と書き直したことが何度あったかわからない。
 私はそれだけの人間でもあるのだ。なぜそれだけの人間として、矢田津世子の凡庸な虚栄につゝましく対処し、うけいれることが出来なかったのだろう。
 私はつまり思いあがっていたのだ。

          ★

 当時を追憶して私が思うことは、私はあれほどの狂気のような恋をした。然し、恋愛とは狂気なものではあるが、純粋なものではない、ということに就てだ。狂気とか、狂人という、いわば一つを思いつめた世界も、それを純一に思いつめたせいではなく、思いつめ方に複雑で不純な歪みがあり、その歪みが結局、狂気の特質ではないかと私は思ったほどである。つまり、人間を狂気にするものは、人間の不純さであるかも知れぬ、というワケになろう。
 然し、狂気の恋愛は、純粋なものと思われ易い。私とても、それを一応純粋なものと思うのは普通であり、すくなくとも、その狂的な劇しさに於て、これを純粋とよぶことは有りうべきことである。つまり情熱のみの問題としては、一応純粋と言うべきであろう。
 我々は概ね七八歳前後の幼年期に、年長の婦人に強い思慕を
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