してゐた。狭い世界に突きつめて生きてゐたから、さういふ感情の異常な激しさも仕方がない。語学でも分るやうに特異な頭脳であつたが、週期的な精神錯乱のせゐなどあつて、構成や表現が伴はず、眼高手低、宿命的な永遠の傑れたディレッタントであつた。私への愛と又憎しみを私はもとより知つてはゐた。
「聴えないか。耳をよこせ」
高木の狂暴な眼が私をさがす。声が殆んど聞きとれない。私は彼の口へ耳をやらねばならないし、さうすると、世にも無残な悪臭でやりきれない。「死んでくれ。死なゝければ、きつと、よぶ」必死に叫びつゞける。肉体はもう死んでゐるのだ。すでに死臭すら漂つてゐる。今生きて、もがき、のたうつて叫ぶのはこの男の霊気だけのやうである。私は黙つてゐた。
「おい。怖いのか。怖いのだらう」
彼の叫びはつゞく。狂つた光が私の顔を必死にさがしてゐるのである。霊気のみの肉体だつたが、眼の光は狂つたけだもの[#「けだもの」に傍点]だつた。
「もとより怖いよ。いやな話だ」
と私は答へた。高木は私が正直にさう言ふことを多分好まないと思つたから、私は冷くさう答へた。
けれども私の答の結果は私の予期を越えて、彼の顔に無残な落胆が表れた。さうして、突然口を噤んでしまつたのである。
病床の顔は苦痛に歪み無残であつたが、その死顔はむしろ安らかであつた。ひと握りの小さな悲しい顔であつた。
お通夜や又何やかや用達の道々などで、私は高木の妹から、彼が甚だ好色漢で、宿屋へ泊れば女中を口説く、或時バーの女に惚れ、どういふわけだか片足に繍帯まいてわざ/\松葉杖に縋りながら渋面つくつて通ふやうな愚かなこともしたといふ。さういふ話をきいた。その時私は再びあの幼い笑顔をこの人の顔に見出した。
「助平は私たちの親ゆづりの宿命ですから仕方がありません」
笑ひながら言つてゐる。昔は私が見逃してゐた激しい神経のこまかな波が笑ひの裏にきらめいてゐた。激情のあげくどうにも仕方がない笑ひであつた。
もう小娘ではない。何やかや指図して大の男を使ひこなしてゐる様子は天晴《あっぱ》れ姐御であつたが、さういふこの人は私の心を動かさなかつた。私は笑ひを追ひつゞけた。それはひどく高潔だつた。
丁度葬式の最中にこの人は中央公論社の婦人記者の試験を受けた。話をきくと全然無茶な答案で、名題《なだい》の吉屋信子女史を古屋信子と言つて済してゐる没常識だから落第に間違ひないと思つてゐたら、何百人ものうちたつた一人及第したといふのには呆れかへつた。
数年すぎて同じ社の佐藤観次郎氏にあつたとき、高木の妹のことを尋ねると、彼は目をパチ/\させて吃驚《びっくり》して、
「あの人は僕の社内無二の親友です」
彼はそれを語ることが最も楽しいといふ様子であつた。無邪気そのものの弾みのある言葉で、純潔の少年の輝きがあつた。私はひどく好ましいものを感じた。
この正月のことである。私は元旦に中村地平氏の家へ行き雑煮を食べる約束であつた。それから地平さんと真杉さんと私とで藤井のをばさんの所へ行き大いに遊ぶ筈であつた。私は生憎ある友達が精神異状で行方不明になり探し廻らねばならなかつたりして松の内も終る頃やうやく地平さんの所へ行つた。
地平さん真杉さんは、正月藤井のをばさんの家で高木の妹に紹介されたといふのである。
「あの人は十八九ですか」
地平さんは私に訊く。私は忘れてゐた昔を歴々思ひだし、成程と思つた。
「あつはつは。今でもそんな齢に見えますか。もう三十ぐらゐです」
「わあ。驚いたなあ」
「あら、羨しい。ずゐぶん得な方ですわね」
と真杉さんも感に打たれてゐる。同性の小説家もやつぱり十八九だと思つたさうだ。
私は近頃|切支丹《キリシタン》の書物ばかり読んでゐる。小田原へ引越す匆々《そうそう》三好達治さんにすゝめられて、シドチに関する文献を数冊読んだ。それから切支丹が病みつきになり、手当り次第切支丹の本ばかり読む。パヂェスの武骨極まる飜訳でもうんざりするどころか面白くて堪らないのである。
文献を通じて私にせまる殉教の血や潜伏や潜入の押花のやうな情熱は、私の安易な常識的な考へ方とは違ふものを感じさせ、やがて私は何か書かずにゐられないと思ふけれども、今は高潔な異国に上陸したばかりのやうで、何も言ふことが出来ないのである。
内藤ジュリヤ。京極マリヤ。細川ガラシャ。ジュリヤおたあ。死をもつて迫られて尚主を棄てなかつた婦人達。私の安易な婦人観とはだいぶん違つた人達であつた。私には、これらの婦人と現実の婦人たちとの関聯や類似がはつきりしない。どういふ顔をしてゐただらうか。日常の弛んだ心にも主の外に棲むことはできなかつたのだらうか。そして肉体の中にも?――私には分らないのである。この現実とつなぎ合せる手がかりが見当らない有様である。
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