とは聞き及びましたが、空飛びの大納言は珍聞です」と、大納言はにやにやした。「すらりとしたあなたならばいざ知らず、猪のようにふとった私が空を翔けても、とんと風味がありますまい。私は、こうして、京のおちこちを歩くだけで沢山です。唐、天竺《てんじく》の女のことまで気にかかっては、眠るいとまもありますまい。まあさ。郷に入っては郷に従えと云う通り、この国では、若い娘が男の顔をみるときは、笑顔をつくるものですよ」
 大納言の官能は、したたか酩酊《めいてい》に及びはじめた。ふらりふらりと天女に近づき、片手で天女の片手をとり、片手で天女の頬っぺたを弾《はじ》きそうな様子であった。
 天女は飛びのき、凜として、柳眉《りゅうび》を逆立てて、直立した。
「あとで悔いても及びませぬ。姫君のお仕置が怖しいとは思いませぬか」大納言を睨《にら》み、刺した。「月の国の仕返しを受けますよ」
「ワッハッハッハ。天つ乙女の軍勢が攻め寄せて来ますかな。いや、喜び勇んで一戦に応じましょう。一族郎党、さだめし勇み立って戦うことでありましょう。力つきれば、敗れることを悔いますまい。こうときまれば、愈《いよいよ》この笛は差上げられぬ」
 天女は張りつめた力もくずれ、しくしく泣きだした。
 大納言はそれを眺めて、満悦のためにだらしなくとろけた顔をにたにたさせて、喉を鳴らした。
 天女の裳裾《もすそ》をとりあげて、泥を払ってやるふりをして、不思議な香気をたのしんだ。
「これさ。御案じなさることはありますまい。とって食おうとは申しませぬ」
 大納言は食指をしゃぶって、意地悪く、天女の素足をつついた。泣きくれながら、本能的にあとずさり、すくみ、ふるえる天女の姿態を満喫して、しびれる官能をたのしんだ。
「とにかく、この山中では、打解けて話もできますまい。はじめて下界へお降りあそばしたこととて、心細さがひとしおとは察せられますが、それとてもこの世のならいによれば、忘れという魔者の使いが、一夜のうちに涙をふいてくれる筈。お望みならば、月の姫の御殿に劣らぬお住居もつくらせましょう。おや、知らないうちに、月もだいぶ上ったようです。まず、そろそろと、めあての家へ参ることに致しましょう」
 大納言は天女のかいなを執り、ひきおこした。
 天女は嘆き悲しんだが、大納言の決意の前には、及ばなかった。
 大納言の言葉のままに、彼の召使う者の棲
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