粋一念の心掛けも、見栄の魔力も、及ばなかった。
 往昔、花の巴里《パリ》にも、そのような時があったそうな。十七世紀のことだから、この物語に比べれば、そう遠くもない昔である。スキュデリという才色一代を風靡《ふうび》した佳人があった。粋一念の恋人たちも、ちかごろの物騒さでは、各の佳人のもとへよう通うまいという王様の冗談に答えて、賊を怖れる恋人に恋人の資格はございませぬという意味を、二行の詩《うた》で返したという名高い話があるそうな。
 紫の大納言は、二寸の百足《むかで》に飛び退いたが、見たこともない幽霊はとんと怖れぬ人だったから、まだ出会わない盗賊には、怯《おび》える心がすくなかった。それゆえ、多感な郎子たちが、心にもあらず、恋人の役を怠りがちであったころ、この人ばかりは、とんと夜道の寂寞を訝《いぶか》りもせず、一夜の幸をあれこれと想い描いて歩くほかには、ついぞ余念に悩むことがないのであった。
 一夜、それは夏の夜のことだった。深草から醍醐《だいご》へ通う谷あいの径《みち》を歩いていると、にわかに鳴神がとどろきはじめた。よもの山々は稲妻のひかりに照りはえ、白昼のごとく現れて又掻き消えたが、その稲妻のひらめいたとき、径のかたえの叢に、あたかも稲妻に応えるように異様にかがやくものを見た。大納言はそれを拾った。それは一管の小笛であった。
 折しも雨はごうごうと降りしぶいて、地軸を流すようだったので、大納言は松の大樹の蔭にかくれて、はれまを待たねばならなかった。
 雨ははれた。谷あいの小径は、そうしてよもの山々は、すでに皓月《こうげつ》の下にくっきりと照らしだされているのであった。と、大納言の歩く行くてに、羅《うすもの》の白衣をまとうた女の姿が、月光をうしろにうけて、静かに立っているのであった。
「わたくしの笛をお返しなされて下さいませ」
 鈴のねのような声だった。それは凜然として命令の冷めたさが漲《みなぎ》っていた。
「わたくしは人の世の者ではございませぬ。月の国の姫にかしずく侍女のひとりでございますが、あやまって姫の寵愛の小笛を落し、それをとって戻らなければ、再び天上に住むことがかないませぬ。不愍《ふびん》と思い、それを返して下さりませ」
「はてさて、これは奇遇です」と、大納言は驚いて答えた。「私の祖父の家来であった年寄が、月の兎の餅《もち》を拾って食べたところ、三ヶ日は夜
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