づけでよんで、自分の小説の自慢をはじめるからである。
酒に酔っぱらって対者の文学をやっつけることを当時の用語で「からむ」と云った。からんだり、からまれたり、酒をのめば、からむもの、からまれるもの、さもなければ文学者にあらず、という有様。私のような原始的素朴実在論者は忽ちかぶれてハヽア、文学とはそういうものかと思いつめる始末だから、あさましい。私は当時は中島健蔵とのむのが好きであった。なぜなら、ケンチ先生だけはからまない。彼は酔っ払うと、徹頭徹尾ニヤ/\相好くずしている笑い大仏で、お喋り夥しいけれども、からまない。要するに無意味なヨッパライで、酒というものは本来無意味なのだから、それが当りまえだ。酒をのんで精神高揚だの、魂が深まるだのって、そんな大馬鹿な話があるものではない。
近頃の若い文学者は、やっぱり「からむ」飲み方をしているだろうか。たぶん、もっと利巧になっているだろう。酒は本来アラレもないものだから、とりすます必要も、粋だの意気がる必要もないが、からむのは、やめたがいゝ。元来、酔っ払って、文学を談じるのがよろしくない。否、酔わない時でも、文学は談じてはならぬ。文学は、書くもので、そして読むものだ。全てを書け。だから、読むのだ。喋る当人は魂のぬけがらだろう。こんなにハッキリしているものはない。
だから、文士の座談会は本来随筆的であるべきで、文学を語るなどとは大いに良くない。読む方の人が、そんなところに文学がころがっていると思ったら大変、文学は常に考えられることにより、そして書かれることによって、生れてくるものなのだから。
座談会は読物的、随筆的、漫談的であるべきもの、尤も、他の職業の人達の座談会のことは私は知らない。
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文士が深刻そうな顔をしなければならないのは書斎の中だけで、仕事場をはなれたときは、あたりまえの人間であるのが当りまえ。
それに第一、深刻などゝいうのは、本人の気の持ちようにすぎないので、文学は文学それ自体である以外に、何ものでもない。
サイカイモクヨクしたり、端坐して書かねばならぬ性質のものでもなく、アグラをかいたり、ねころんで書いたり、要するに、良く書くことだけが全部で、近ごろのように、炭もストーブもない冬どきでは、ねどこにもぐりこんで書く以外に手がなかろう。それを、寒気にめげず端坐して書いて深刻などゝは
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