き放している。どうにでもなれ、と。私は行う。私は言い訳はしない。行うところが、私なのだ。私は私を知らないから、私は行う。そして、あゝ、そうか、そういう私であったか、と。
私は書く、あゝ、そういう私であったか、と。然し、私は私を発見するために書いているのではない。私は編輯者が喜ぶような面白い小説を書いてやろう、と思うときもある。何でも、いゝや、たゞ、書いてやれ、当ってくだけろ、というときもある。そのとき、そのとき、でたらめ、色々のことを考える。然し、考えることゝ、書くことゝは違う。書くことは、それ自体が生活だ。アンリ・ベイル先生は「読み、書き、愛せり」とあるが、私は「書き、愛せり」読むのも、考えるのも、書くことの周囲だ。うっかりすると、愛せり、というのも、当にならない。私はそんなに愛したろうか、確信的に。私が、ともかく、ひたむきに、やったことは、書いたことだけだろう。
私は然し、みんな、書きすてゝきた。ほんとに書きすてた、のだ。けれども、ともかく、書いたとき、書くことが生活であった。このことは疑えない。
女に惚れたとき、酒をのむとき、私は舌をだすことも出来た。横をむくこともできた。私は金が欲しくて小説を書いた。私には分らない。私は断定することができないけれども、私自身は影のように、つかまえるところもなく、私の恋も、のんだくれの夜も、私は私の影のような気がする。
「書けり」というのが、たった一つ生活であったような気がするのは、それが決して快楽ではなく、むしろ苦痛であるに拘らず、そのために、他を犠牲にして、悔いないからであろうか。そういう、差引、損得勘定ではないだろう。
やっぱり書くことが面白く、そしてそれが快楽であるのかも分らない。然し、快楽というものは不安なものだが、そして常に人を裏切るものであるが、(なぜなら快楽ほど人に空想せられるものはないから)私は書くことに裏切られたとは思われぬ。私は力が足らなかった。書き得なかった。そういう不安がないこともない。然し、書いた。書くことによって、書かれたものが実在し、書かないものは実在しなかった。その区別だけは、そして、その区別に私の生活が実在していたのではなかったのか。
私は然し、生きているから、書くだけで、私は、とにかく、生きており、生きつゞけるつもりでいるのだ。私は私の書きすてた小説、つまり、過去の小説は、もう、
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