なる人格が為し得たにすぎなかつた。
 近頃、講談や浪花節で「長短槍試合」といふのを、よく、やる。
 豊臣秀吉がまだ信長の幕下にゐた頃の話で、槍は長短いづれが有利かといふ信長の問に、秀吉は短を主張した。そこで、長を主張する者と、百名づつの足軽を借りうけて、長短の槍試合をすることになつたが、長を主張した者の方では連日足軽共に槍の猛訓練を施すにも拘らず、秀吉の方は連日足軽を御馳走ぜめにし、散々酒浸りにさせるばかりで、一向に槍術を教へない。が、試合の時がきて、秀吉勢は鼻唄まぢりの景気にまかせて、一気に勝を占めた、といふ話なのである。
 今迄は余り口演されなかつたこの話が、近頃になつて俄に講談や浪花節で頻りにとりあげられるといふのは、多分時局に対する一応の批判が、この話に含まれてゐるのを、演者が意識してのことであらう。それも、兵士達にふだん遊びを与へる方が強い兵士を育てるといふ内容通りの意味よりも、我々の日常生活に酒が飲めなくなつたり、遊びが制限せられたりして窮屈になつたことに対して、自分の立場から割りだした都合の良い皮肉であり注文のやうな気がするのである。
 ふだん飲んだくれてゐたつてイザとなりや命をすてゝみせると考へたり、ふだんヂメヂメしてゐちや、いざ鎌倉といふ時に元気がでるものか、といふ考へは、我々が日常尤も口にしやすい所である。僕など酒飲みの悪癖で、特に安易にこのやうな軽率な気焔をあげがちなのである。
 けれども、この考へは、現に我々が死に就て考へはしてゐても、決して「死に直面して」ゐはしないことによつて、そも/\の根柢に決定的な欺瞞がある。多分死にはしないだらうといふ意識の上に思考してゐる我々が、その思考の中で、死の恐怖を否定し得ても、それは実際のものではない。
 講談、浪花節はとにかくとして、このやうなテーマも、各人の厳格なモラルとして取扱はねば意味をなさぬ文学の領域に於ては、単に軽率な思考とだけでは済むことではなく、罪悪である。世道人心に流す害悪といふ意味よりも、文学の絶対の面に於て、余りにも悲惨な「通俗」であるといふ意味に於て。
 戦争に、死に、鼻唄はない。ドイツが強い一因は、それをはつきり意識して戦争してゐるからであらう。味方の兵士も死を怖れてゐること、それをはつきり意識してゐる。敵に「死の絶望」を思はせること、この心理的欠点をつくこと、それが重大有効な武器であることを、ドイツは知つてゐる。前大戦敗軍の負傷兵伍長ヒットラーは戦争の恐怖をはつきり知つてゐるのであらう。鼻唄まぢりで人が死ねると思ふのは間違ひである。



底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第三号」大観堂
   1941(昭和16)年4月28日発行
初出:「現代文学 第四巻第三号」大観堂
   1941(昭和16)年4月28日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング