うと言ふのである。
 弾雨の下に休息を感じてゐる兵士達に、果して「死」があつたか? 事実として、二三の戦死があつたとしても、兵士達の心が死をみつめてゐたか? この疑問を忘れてはならない。
 すくなくとも、兵士達が弾雨の下に休息を感じてゐるとすれば、彼等はそのとき「自分はこゝで死ぬかも知れない」といふ不安が多少はあつても、それよりも一さう強く「多分自分は死なゝいだらう」と考へてゐたに相違ないのだ。偶然弾に当つても、その瞬間まで彼等の心は死に直面し、死を視凝《みつ》めてはゐないのだ。
 このやうなゆとり[#「ゆとり」に傍点]があるとき、兵士は鼻唄と共に進みうる。「必ず死ぬ」ときまつたときに、果して誰が鼻唄と共に前進しうるか。そのとき、進みうる人は超人だ。常人は「必ず死ぬ」となれば怯える。従而《したがつて》戦争を「死の絶望」に関してのみ見る限り、決死隊をのぞいては、進む兵士は必ずしも戦争を、死を、見てゐるとは限らない。
 ヤンキーが戦争をスポーツなみに考へて、女の子の拍手に送られ、鼻唄と共に出征しても、それと戦場の強さとは自ら問題が別である。彼等の鼻唄は「多分死にはしないだらう」といふ意識下の確信から生れ、「必ず死ぬ」ときまつたときには、自ら別の態度を要求される。
 都会人に比較して田舎人は楽天的でないのが普通であるが、戦争の場合でも、田舎人はより多く自分の死ぬ率を予想し、不安をはぐらかすゆとり[#「ゆとり」に傍点]がないに相違ない。それゆゑ、彼等は出征に当つて、都会人よりも多くの覚悟を必要とし、又、その心は沈み、鼻唄のゆとりがないかも知れないが、戦場で、本当の死に直面して、都会人が逃げるとき彼等が前進しないとも限らない。
 フランスの兵士達は、マジノラインが崩れるときに始めて戦争を見たのだ。それは彼等の鼻唄の中では想像もなし得なかつた暗黒な姿の戦争だつた。

「必ず死ぬ」ときまつた時に進みうる人は常人ではない。まして、それが、一貫した信念によつて為されるときには異常と共に、偉大なる人と言はねばならぬ。思想を、仕事を、信仰を、命を棄てゝもと自負する人は無限にゐる。然し、そのうちの幾人が、死に直面して、死をもつて強要されて、尚その信念を棄てなかつたか。死をもつて信念を貫くこの崇高な姿は、常人もなほ常時にあつて屡々《しばしば》軽率に自負しがちであるにも拘らず、極めて少数の偉大
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