こう書いてある。まだ生きていたと見てとって、トドメを刺してやろうという見幕らしい。
「それでも日本人か!」
 言い合したように、こう怒る。なぜ怒られるのか、のみこめない。
「民衆の心はキサマから離れている」
 嘘ではないのである。たしかに彼らのある者はこういう風に、もしくは、こういう意味のことを私に向って叩きつけているのである。
 共産党以外の人には分る筈だが、この文句は、時の首相とか、政党の指導者などに用いるもので、巷談屋には用いない。用いて悪い規則もないが、巷談屋とヒットラーには、用いる言葉がおのずからそれぞれに相応したものでなければならない。
 こう断定した共産党は静岡県の富士郡というところの何々村の住人だ。行って見たわけではないが、富士山の麓のヘキ村だろう。そんなところに住んでいても、民衆の心が巷談屋から離れているのをチャンと見ているのである。
「キサマの末路はわかってる」
 そうか。さては末路も見破られたか。どうしても末路を見破り、人民裁判にかける意向が明かなのである。彼らは骨の髄から懲罰精神でかたまっているらしい。つきあいにくい人種である。
 西洋の童話には森の妖婆がでてくる。これが共産党の先祖で怖しい呪いをかける。末路を予言するのである。口の中でブツブツ言うのだが、赤頭巾を食う狼よりも兇悪不逞で、人間の敵だ。腰のまがった妖婆とちがって、威勢のよい共産党はもッとハッキリきこえよがしに呪いをかける。近代的だか軍人的だか知らないが、人間の敵には変りがない。森の妖婆の中にも「善い妖婆」がまれにはいる。シンデレラ姫についた妖婆がそれである。私にはそんな共産党はついてくれない。そして私はどうしても人民の名によって吊しあげられることになるのである。
 しかし巷談師はこんな不景気な手紙ばかりもらうわけではない。

          ★

「もし、もし。ちょッと、ちょッとオ。待ってえ! 坂口さん」
 巷談師のうしろから大声で叫びながら、自転車で追ってきた女の子がいる。この温泉町はパンパンが大通りへ進出して客をひッぱるので有名だが、自転車で追っかけた話はまだきいたことがない。
 見たところパンパンと見分けがつかなくて、同じぐらいの年恰好だ。
「コーダンの坂口さん? そうでしょう」
「……」
「そうでしょう? そう言ったわ。坂口さんね?」
「そう」
「じゃア、いッしょに、
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