き終つて後に、自分を発見すべきである。
これに就ては、然し、作家が小説を書くに当つて、作家の意識せざるものを書きうる筈がないといふ反対があるかも知れぬ。創作とか創造とか、如何ほど言つてみても、それは読者に対してのことで、作家自身はその意識を通らない何事をも書きうる筈がない。さういふ反駁である。
然しながら、我々の意識が、すでに決して万能ではないことを、忘れてはならない。我々の意識には、その各々の角度と通路とがあつて、一度、意識を設定するや、他の角度と通路にある意識を見失はなければならない。従而《したがつて》、我々は、対象を限定した以上は、如何ほど意識に忠実であり、対象を追求し、正確に表現しても、意識の角度と通路の外の真実は常に逃してゐるのである。
僕は小説を書きながら、その悔恨の最大のひとつは、巧みに表現せられた裏側には、常に巧に殺された真実があつた、といふことであつた。
僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を創りたいために、要するに僕自身の表現に外ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつゞけようと思つてゐる。
さて、僕は本題の作家論を言ひ忘れたが、小説の場合に自伝とか他人の伝記とかいふものがあるとすれば、評論家にとつて、作家論といふものは、小説家が他人の伝記を書くことゝ同じやうなものではあるまいか。
もし、さうだつたら、作家論といふものも、他人をかりて、自分を発見し、とりだすための便宜上の一法であらうと思ふ。たゞ作家の姿を探すといふだけの労作なら、創作集の無駄な序文のやうなものだ。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第四号」大観堂
1941(昭和16)年5月28日発行
初出:「現代文学 第四巻第四号」大観堂
1941(昭和16)年5月28日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
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