みる切なさは、その山影をだいて死にたいやうであつた。
 それからの丁度一年間、私は七百枚の小説を机の上に置きすてて、毎日毎夜、碁を打つてゐた。そして夜更の十二時、一時頃、碁をやめて、十二銭の酒をのみ、豚の如くに眠つた。七百枚の小説には、一年間の埃がつもり、もう字の色は見えず、埃だけが、黒ずむやうになつてゐたのだ。
 私はなぜこの小説を破りすてる勇気がなかつたのであらうか。もし又私がこの小説を本にするには、一年前に本にすることができた筈だ。私は貧乏で困つてをり、一ヶ月三十円ぐらゐで生きてをり、出版屋は東京から、小説の完成をサイソクしつづけてゐた。私は然し一ヶ年、日毎に埃のつもる原稿を、ふと見るだけの力もなく、空しく自暴自棄の胸の怒りをつのらせてゐた。なぜこの小説を破ることができなかつたのか。私は不思議でもあるが、無理もないと思ひもする。
 あの頃、私は、何度も死なうと思つたか知れないのだ。私の才能に絶望した。こんなものしか、こんな嘘しか、心にもないことしか、書けないのかと思つたから。私は私の小説を破るよりも、私の身体を殺したかつた。私はインチキなのだ。私のインチキ小説よりも、もつと激しく、私のインチキな現身《うつしみ》、イノチに絶望してゐた。私は私のイノチよりも、むしろ七百枚の小説を信頼した。なぜなら、どんな嘘つパチな見栄坊の小説でも、ともかく、私のインチキな現身のギリギリな何かではあつたことを知つてゐたからだ。インチキなるものが、ギリギリにインチキをやり、馬脚を現してゐるだけなのだから。
 そして無為に臍《ほぞ》をかむ一ヶ年、私は遂に意を決した。
 私は間違つてゐたのではない。私は始めの目的通り、私の過去に一つの墓をつくつたのだ。インチキなるものが、インチキなる墓をつくつただけではないか。私はさう諦めることによつて、ともかく、生きる力を得た。私は諦めることによつて絶望をやめ、そして、再生に向かつたのだ。インチキ自体をもつて墓標をかたどることによつて、私は裁かれ、いくらかでもインチキでないやうに、出発しなければならないのだと信じたのだ。信じようとしたのである。
 そして、一週間ばかり手を入れて、昭和十三年、夏の始めに上京して出版屋に原稿を渡したのだが、それから九年、私はこの小説の悪夢にうなされたものだつた。私がいくらかでもこの小説の悪夢をすて得て、今、ここに再版を怖れぬ思ひになつたのは去年の暮のことで、然し、今、尚、この小説を正視する勇気はない。

          ★

 今尚かくの如き私であるから、私はこの墓を書きすてることによつて、すべてを墓に封じ得るどころか、むしろひろがる悪夢に悩み、新らたな視野へ生活へ、かどだつことは不可能だつた。この本を出版後の東京に於ける一ヶ年の荒れ果てた生活、次に利根川べりの取手といふ町の一ヶ年の流浪生活、それから更に一ヶ年、小田原に於ける流浪、私の魂が流浪し、さまよひ、淪落の底にまみれて、ともかく私が多少とも新らたな発足を新らたな視野を自覚し、表現し得たのは、三年の後のことであつたのだ。
 そして私が、ともかく今日につづく、やや確信的な何か、表現すべき何かに就いて信念と自覚を持ち得たのも、「吹雪物語」によつてでなしに、吹雪物語を書いた後の自信の喪失、絶望、その京都に於ける絶望の生活からの内省と、その脱出のための苦しみの結果であり、私の新生は、私の過去を埋めた墓の土を起して現れずに、その墓を作りつつあつたときの私の生活、墓の母胎たる私自身の絶望の生活から現れてきた。思へば私は「吹雪物語」を墓のつもりにしてゐたが、それを作らせ、意志させた私の絶望と、その脱出へのかすかな希願が、まことに絶望を埋める私の真実の墓たり得たので、私は尚、私の卑小な絶望に、それを真実封じうるまことの墓を今日も尚、作り得てゐない。
「吹雪物語」は、ただ墓の影であり、その墓は名ばかり、真実屍を土中に埋めてゐない。空虚な、カラの墓であつた。
 私が、ここに、かかる虚しい墓、インチキな墓碑銘を敢て怖れげもなく再版する度胸をもつに至つたのは、ともかく、過去のインチキな悪戦苦闘が今日の私に至るカケガヘのない道であつたことは確かであり、私が今日の私を敢て怖れず世に問ふ限り、過去の私を世に問ふことを怖れるべきでないことを信じ得るやうになつたからだ。
 私の過去の作品はすべて幼稚で、インチキで、惨たるものだ。嘘いつはり、心にもない虚勢、見栄、絶望。しかし、今日の私に至るともかく愚か者は愚か者なりの精一杯の悪戦苦闘がそこに在ることを、私は切なく、懐かしむ。思へば愚か千万な私であり、人が一里の道を私は十里に二十里に、曲りくねり、ぬかるみ、山路、川を泳ぎ、あへぎつづけてきたやうなものだ。
 そして私の現身は、今尚、更に別な風に、廻り道をしたり、
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング