つたのはあながち金切声のせいばかりではなく、正気できいたら噴き出さずにはゐられぬやうな支離滅裂を極めた句と句の羅列であつたからで、「大日本帝国は万世一系の……」と言つてゐるかと思ふと、「ああ拙僧の名誉も地に落ちたり、忠君愛国のほまれも空し、ああ悲しい哉……」「印度に釈迦|瞿曇《くどん》生誕してここに二千有余年――」等々々。
凡太は一体龍然の学識には相当の敬意を払つてゐたのだつた。それは彼が初めてこの寺へ第一歩を踏み入れた夜のこと、龍然はその書院にかなり堆《うずたか》く積まれた書籍を隠すやうにしながら、「売り払ふ古本屋も山の中には無いので……」と恥ぢた顔付をした。凡太の経験に由れば、書籍を所有することに心から恥を持つ人は、おほむね勝れた学識を持つ人達であつたから、龍然の学識に対しても、忽ちこの時から敬意を払ふことにして、別にそれ以来議論を交したこともないから、そのままその時の敬意を払ひつづけてゐたのだつた。ところが隣座敷の狂態たるや支離滅裂も何もあつたものではない、土台論理も論旨もあるわけでなく言葉の体裁をさへ調へてはおらぬのだから、或ひは発狂したのでもあらうかと思へば、恐らくさうでもないのであらう、刑事もつくづく度胆を抜かれてやうやくに龍然を宥めすかし、飛んだ疑ひをかけて相済まない、今となつては青天白日で貴僧の名誉に傷はつけないから――と詫びながら舞ふやうにして退却した。凡太もほつと安堵して玄関へ龍然を迎へに行くと、龍然はもう、どこを風が吹くのかといふやうに、いつもの通りあつけらかんと残骸のやうなしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]した顔をして戻つて来るところだつた。凡太が歩み寄つて龍然の肩をたたくと、別にそれに報ひやうとする顔付もせず、二人肩を並べて黙々と書院へ歩き出したが、敷居を股ぐ時、龍然は鼻を鴨居へ押しつけるばかりにして、あはあはあは……と笑ひ出した。凡太はすつかり毒気を抜かれて、今のは芝居だつたのかい、と訊いてみるのも莫迦らしい程がつかりした気落ちがしたので、いささか胆の白くなる驚嘆を味はひながら、一体この坊主は莫迦なのか悧巧なのか手に負へない怪物だと考へた。
其の後、もう来ないのかと思つてゐた女は、相変らず毎夜龍然を訪れて来た。どういふ変化があるだらうと聴耳をたててゐても、別に変つたこともない、離れにぢつと瞑目して机に凭れて頬杖をついてゐると、すぐ目の先にある小さな古沼、それを越してすぐさま丘の上にある墓地、その又上にひつそりとしてゐる山の腹、都合三段の静寂な気配がそれぞれのニュアンスを持つて、もうすつかり闌けてしまつた初秋の香りを運んだ。なぜだか、身体がやはり一つの気配となつて朦朧とさまよつてゐるやうな、爽やかではあるが一種ぢつとりと落ちついた重い侘びしさが、物体に障碍されることなく一面に流れ漂ふてゐた。いはば、まるで現実とは別種な感覚の世界を創造するもののやうに、目を瞑ると、甘い哀愁の世界がひろびろと窓を開いて通じてゐた。それは「無」――実際は、無といふにはあまりにも一色《ひといろ》の「心」に満ちた、蕭条とした路であつた。それは事実、路といふ感じがした。
由良とも友達になつてゐるのだから、二人打ち連れて遊びにおしかけて来はしないかと、凡太はそれとなく待ち構えてゐたが、別に来るやうなこともない、龍然はあの夜のことを知らないのであらうかとある日訊ねてみたところが、ああ、さうさう、さういふ話をきいてゐた、君によろしく伝へてくれと言ふことだつた、いよいよ俺達も別れることに決つてね、なぞと落ついた返事だつた。
「あの女は別に女衒と一緒に東京へ行かなくとも良いのだから、君さへ邪魔でなかつたら、君の帰る時あれも一緒に連れてつて貰ひたいと言つてゐたよ。東京に知り合があると思へば心強く暮せることだらうからね。ぜひ一緒に連れて帰つて今後も力になつて呉れたまへ。いづれ今晩でも改めておひき合せしやうから。まつたく僕もあの女と別れることになつてせいせい[#「せいせい」に傍点]したよ」
龍然はそんなことを言ひながら、無心に鼻の油を拭いてゐたりした。そのくせ、やはり女と別れることが、別れ切れない心持もあるのであつた。丁度その頃のことであつたらう、凡太と龍然はある黄昏の杉並木を金比羅大明神の方へ散歩にぶらついてゐたが、嶮しく高い坂道の途中で、偶然上の方からただ一人下りてくる例の女衒に擦れ違つたのであつた。女衒は手に短い杉の小枝を携へてゐて、それを弄びながら急ぎ足ですたすた下りていつたのだが――その時凡太は、それは恐らくその時の結果から推してさう思ひ当るのかも知れないけれど、もし自分が龍然の身の上で、そして今自分一人でこんな山奥に女衒と擦れ違つたとしたならば、或ひは自分は女衒を殺害して谷底へ埋めてしまふかも知れない……と、そんな風な空想
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング