。凡太は頸をもたげてそれを待ち構えてゐたが、それはしかし人間ではなく、叢《くさむら》の中を何か動く昆虫の類ひであらう、やがて高く頭上に当つて、杉の葉の鈍く揺れる澱んだ風音がした。彼はもつくり起き上つた、そして遂ひに辛酸を重ねて金比羅大明神の境内へ辿りつくと、果せるかな、それも已にひつそりとした闇の一部に還元してゐて見えるものも聴えるものも無かつたが、流石に地肌に劇しい荒れが感ぜられて、ことに円舞の足跡が鮮やかな輪型に描き残されたまましきり[#「しきり」に傍点]に其処にはたはた[#「はたはた」に傍点]揺らめいてゐるやうな、何かなつかしい匂ひが鼻にまつわつた。凡太は暫らく冥目して、素朴な社殿にいくつかの拍手《かしわで》を打ちならしたが、忽然と身を躍らすと目には見えない輪型の中へ跳び込んで、出鱈目千万な踊りを手を振り足を跳ね、泳ぐが如くに活躍して、幾度か身体を地肌へ叩きつけた。凡太はううんううんと痛快な苦悶の声を闇に高く張りあげながら、その場一面に一時間近くのたうち廻つてゐたが、やうやくいささか我に帰つて、再び険阻な坂道を転落しながら橄欖寺の離れへ安着することが出来た。帰着してみると、当然暗闇であるべき筈の離れには一面にありありと燈りの白さが映えてゐて、流石に凡太の泥酔した神経にもこれはおかしいと思はれたが、しかし見廻すにただ白々と其処に広さがあるばかり、人影はたしかに無い、いや、在つた、机の上に豪然と安坐して、一房のバナナが部屋一杯の蕭条とした明るさを睥睨《へいげい》してゐた。言ふまでもなく由良の仕業に相違あるまい、凡太は堅く腕を組んで、暫くぢつとバナナの不敵な面魂を睨んでゐたが、腕をほぐすとゐざり寄つて、またたくうちに一つ残さず平らげてしまつた。
翌日龍然は車に送られて帰つて来た。日の落ちるまで顔を合はす機会は無かつたが、一風呂浴びて夕膳の卓に向き合ふと、ポツポツ語り出した龍然の話は、山奥に目新しいトピックであつた。龍然の招かれた先の豪家では、彼のかなり親密な友達であつた其処の次男は、急死とは言ひ乍ら、病死ではなくて、実は催眠薬による自殺であつた。県内でも屈指の豪農であつたから、新聞社などはいち早く口止がきいてゐて、龍然に与へられた多額な布施の如きにも、それに対する心持が含まれてゐた。その男は多少は学問もした人で、数年間|欧羅巴《ヨーロッパ》へ遊学して来たりなぞした経歴を持つてゐたが、日頃無為の境遇に倦怠して激しい虚無感を懐いてゐた。「自分のやうな無為の存在は結局一匹の守宮《やもり》ほどもこの世界とは関係を持たないらしい、広々とした建物の中にぢつと坐つてゐると、其処に人間が居るのだか居ないのだか、まるきしその気配さへ分らないし、たとへ其処に居るとは分つても、人々はこの建物に当然の染《しみ》ほどにしか考へない、守宮《やもり》を発見した時のやうな賑やかな騒しさでは誰も自分の存在を問題にすることがない。やがて自分は死ぬであらうが、自分の死滅したのちもこの古い厳めしい建物はなほ厳然と存在してゐて、人々は尚その中に住み乍ら、むかしこの建物の中に自分といふ存在が染《しみ》のやうに生きてゐたこと、今は已に消滅して見当らぬことなどを考へる者もなく、第一その話を思ひ出してさへ、かつて自分が存在したゞらう確証を認識するにさへ困難して苦笑するであらう。いはば自分は死の中に生き続けてゐるやうなもので、結局生命にひけめ[#「ひけめ」に傍点]を感じながら、生きてゐる限りは存在に敗北しつづけてゐるやうなものだ……」と、その男は結局これと同じ内容のことを種々な様式によつて常日頃龍然に述懐してゐたが、時々は興奮して、ひと思ひに左翼へ走つて自分の生命力を爆砕したいなぞと猛り立つたりした、そんな淋しい男だつたさうである。その男は、ほかに親しい友達が無かつたのであらう、死に当つて龍然にも遺書を残してゐた。そこには、長い間の友誼を深謝す、と、ただそれだけの意味のことが数行にわたつて簡単に述べられてあるだけのことであつたが、その遺書は龍然の手に渡る以前に、すでに家族の手によつて開封されてゐた。勿論それだけのことならば、龍然のことであるから立腹する筈はなかつたであらう、不幸にして、この一家が死者に対する待遇は、恰も唾棄すべき不孝者を遇するが如き不潔な冷酷さを漂はしてゐたために、無論それは体面を重んずる豪家として詮方ない次第でもあらうけれど、龍然は友人であるだけ甚だ気に入らなかつた。彼は開封された遺書に対して一向に礼儀を心得ぬ卑劣な言訳をきくと、全く憤慨して、通夜の席上で大いに啖呵を切つてきたさうであつた。
「――実際大きな建物といふ奴は不思議な迫力を持つものでね。僕なんぞもこのガランとした寺にぢつと坐つてゐると、その男と同じやうな漠然とした不安を、やはりしみじみ思ひ当るこ
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