によって畑には人影がなく、家の戸は閉ざされたまま変りがなかったが、畑に人影がないことも、農家の戸が閉ざされたままであることも、特にフシギというわけには参らぬ。山上の農家の人が時に戸締りしてでかけることもありうるというだけのことである。
「中へはいってみたいなア」
 と木戸は思いあまったような呟きをもらした。
「何か変ったものを見たのかい」
「いいえ。特に変ったこともありません。ですが、この家の内部はいわば盤面のようなものですからね。やはり盤面に向ってみないと。ボクら頭の中に自分の盤面はあるんですけど、勝負はやはり本物の盤面を睨んだ上でないとできないものです。そう云えば、土間をはいって右下隅に棚があって概ね何も乗っかっていないんですが、サイダーの空ビンだけが一隅にかたまっていて中味のつまってるのが中に二三本まじってたんです。そんなのが妙に印象にのこっているので、ジッと盤面を、つまり屋内を睨んでみると何か関聯がわかってくるかも知れないように思われるんですね。どこかしらに関聯がでているはずだと思うんです」
「しかしキミが娘の顔に四五桂を見たのはサイダーをのみ終ってから金をもたないのに気がついて借金を申しいれた時だそうじゃないか。第一感が働くのは娘をはじめて見た瞬間でなければならないように思われるんだがね」
「それもあるかも知れませんが、たとえば将棋の場合、序盤に第一感の働く余地がないようなことも思い合わせてみることができやしませんか。急所へきてはじめて第一感があるのでしょう」
 木戸は野村をほったらかして家のまわりを歩いてきたが、何の収穫もなかったらしい。ガッカリした色が見えた。あきらめて山を降りたが、道ばたに働く農夫を見ると、我慢ができなくなったらしく、
「あの茶店に二十ぐらいの娘がいますね」
「あの出戻りかい。もう二十四五だろう」
「色の黒い、畑の匂いのプン/\するような娘ですよ」
「アヽ、色が大そう黒いな。畑の匂いだって? とんでもない。色の黒いのは地色だよ。あの出戻りは野良へでたことなんてありやしない。ヨメ入り先から逃げだしたのも野良仕事がキライだからだ」
「茶店だけで暮しがたつんですか」
「バカな」
「お金持なんですか」
「あれッぽちの畑じゃア食うや食わずだな。もっとも、出戻りはミコだ」
「ミコとは?」
「神社で踊る女だよ。占いも見るな。三年さきに死んだオフクロは占いをよく見たが、あの出戻りもマネゴトはしている」
「家族はいないんですか」
「父親は二人ぐらしだ。男の兄弟もいたのだが、あれッぽちの畑じゃア仕様がないから町へでて何かやってるようだ。山の上に離れていることだから、あのウチのことは村の者もよく知らないが、なんでも父親は四五日前から寝こんでいるということだった」
「大病ですか」
「知らねえ」
 木戸はまた考えこんで歩きだした。橋の上までくると立ち止って、
「また戻ってみたくなりましたねえ」
「病人のことでかい?」
「それなんです。生きてる病人なら、どんどん戸を叩けば返事ぐらいするでしょう」
「ずいぶん叩いたじゃないか」
「だからですよ。あの戸締まりした家の中にたとえ重病人にしろ、生きた人間がいるのでしょうか」
「死んでると云うのかい?」
「まアね。死んでるというよりも、むしろ、殺されてやしませんか。四五桂は、それじゃないかと、いまひょッと、ね」
「キミは踏みこんでみるつもりかい? よその土地からきた赤の他人のキミが」
「二十円の借金返しに踏みこんじゃア変ですか。セーターを取り返すべく戸をこじあけて侵入せりは、たしかに名折れだなア。ハッハッハ」
 どうやら木戸の思考も世間なみのところへ戻ってきたらしく、神妙に橋を渡って宿へ戻ったのである。そして二人は東京へ戻って別れた。
 野村も、ひょッとするとそんなことがありうるかも知れないなと一度は思ってみたりした。木戸のカンが当っていれば絶好のニュースだから、新聞社を訪れて一応将棋記者の耳に入れておこうかと思ったのだが、まんまと外れていると天才児の将来のために良くない結果になるかも知れぬ。そう考えて、野村はこれを忘れることにしたのである。

          ★

 観戦記の原稿を届けにでた野村は、木戸が新聞社から金を受けとってでたままずッと行方が知れないことを知った。彼の次の対局は二週間後に行われる予定で、彼も承知のことではあったが、その対局もまぢかに迫っていたので、新聞社でも多少は気をもんでいる様子であった。その行先はあるいは、と、野村は例の心当りを云いたくなったが待て待てと言葉をおさえたのである。若者の秘密の行先は天下に多い。うっかりバカな見込みを云いたてて、彼の恥も自分の恥も一しょにさらけだしては大変だ。
 幸い次の対局に彼は姿を現した。天下の強豪との対局中に二時間ちかくも行方をくらますほどのずぶとさだから、平時に十日やそこいら行方をくらましてもフシギはないわけで、取越苦労をする方がバカだったかと野村は思った。
 野村はこの対局には関係がなかったから出かけなかったが、木戸は自信満々の様子だったそうである。むろんこの相手もAクラスの強豪だった。
 ところがこの一戦は木戸に良いところがまったくなかった。中盤すでに歴然たる敗勢で、押されに押されてずるずると押し切られた。木戸は喘ぐような悪戦苦闘のあげく、前局で散歩にでかけたと同じような時刻には脂汗でぬれたような悲愴な様で別室へ下って一時間ほど寝こんだそうだ。もっとも、こういう急場にフトンをひッかぶって寝るマネができるだけでも異常神経と云えそうだが、今回に限ってずぶとい余裕はみられなかった。疲れきったあげくだったそうである。夕食後まもなくずる/\と良いところなく押し切られ、局後の検討もせずに座を立ってしまった。コマを投じて無言のまゝスッと立って再び姿を現さなかったそうだが、それは無礼にも、無慙にも受けとることができた。ともかく小僧いまだしの感、すべてに深かったそうである。しかし翌朝は平素の様子に戻って、
「非常によい教訓でした。心を改めて出直します」
 としみ/″\記者に語ったそうで、その一言を残して彼は再び行方不明となった。世間から消え去ってしまったのである。
 野村はそれを一月ほどすぎてきかされた。それからさらに三月ほど後のことである。春の気配が近づいた季節に、仕事の都合で彼は例の温泉に滞在した。
 彼は木戸の行方不明を思いだして、それがこの温泉に関係のあることだとは思わなかったが、すくなくとも初期の行方不明中のある日、彼が一度はこゝへ来ているはずだと考えた。茶店の娘の顔に見た四五桂の謎をとくためにである。勝負師の中でも彼は特に執念の強い方であるし、あの謎によせた彼の執着は一度は彼をこの地に再来せしめるに充分なものだと思われたからである。
 野村はある日の散歩に例の橋を渡って山上へ登ってみた。そして茶店に休息した。茶店は何事もなかったふうに思われた。土間をはいって盤面右下隅の位置にあるという茶店の棚も木戸が語ってきかせたとほぼ同じで、空ビンの代りに新しいサイダーだけが十本ほどあった。そして現れたのも例の娘であった。娘は彼が何者か気づかぬ様子であった。野村はむかし木戸が娘に話しかけたと同じように、サイダーをのみ終えてから、云った。
「去年の十月はじめごろ、二十円のカタにセーターをぬいで渡した釣人を覚えていないかね」
 その瞬間にまさしく野村も見たのである。木戸の云った例の四五桂と同じものを見たと思った。むろんそれは野村にとっては四五桂ではない。また木戸があるいは真剣勝負の剣客のスキのないきびしさと云ったものともややちがう、それは世の常の人のものとはちがっていた。驚愕がないのだ。そして、怖れがないのだ。そこに溢れているものは怒りであり、逞しい闘志であった。いわば全てが一途にはりきったきびしい気魄のみであって、その裏側にあるべきはずの驚きや怖れが欠けているのだ。いわば無智の象徴と云うことができるかも知れぬ。敵のみを知りうる無智。闘うことを知るのみの無智。木戸がその顔に四五桂を見てそれが読み切られた四五桂であると確信したのは、極端に無智な闘魂に負けたからではあるまいかと野村は思った。この顔から急所の四五桂を見てとるのはむしろ無理だが、殺人を感じたことは肯きうるかも知れないと野村は思ったのである。
「そのセーターを返してもらいにきたわけじゃアないがね」
 と野村は笑って云った。
「実はね、おききしたいことがあるのだが、例の和服に袴をはいた若い先生がその後ここへ来なかったかね」
「そんな奴は来ないよ」
 と娘はブッキラボーに答えた。
「来たと思うんだが……」
「来ないと云ったら来ないんだ。逆らうわけでもあるのかい。いまごろセーターをとりに来たってありやしないよ。あきらめて、早くおかえり。かえれよ」
「それは失礼した。いくらだね」
「茶代もいれて三十円」
「十円の値上げだな」
「二度とくるな」
 まるでもう丸太ン棒のような文句で叩き出されてしまったのである。ミコや占いという品格ある客商売もやってるそうだがそのときはどの種の言葉遣いを用いるのかと、野村はそぞろ興を催したほどであった。
 野村は娘に横溢している陰鬱な殺気が気がかりになった。もしも木戸が再びここを訪れてその第一感にからまる疑惑を明らかにした場合、そしてその疑惑が的を射たものであった場合、木戸の運命がどういうことになるかと考えてみたのである。
 そこで野村はその足で木戸の対局を主催した新聞社の支局を訪れ、その間の事情について心当りになるような出来事がなかったか尋ねてみた。
「その対局はいつでしたか」
「昨年十月の六七日です」
「さっそく調査して御返事しましょう」
 翌日、電話で返事がとどいた。
「茶店のオヤジサンは対局の翌日病死しておりますね」
「他殺ではないのですか」
「いえ、明らかに病死です。医者の証明がありますから。その医者は警察医でもありますから、まちがいはありません。娘が病気の父親を大八車につんで、まだ夜明け前に医者へ連れてきたそうです。そのときはまだ息があったそうですが、病院へかつぎこまれて五分か十分で死んだそうです。つまり、あなたが御覧になった戸締りの家は、その留守中に当るわけです。十月八日の出来事ですから。次に木戸六段の件ですが、茶店の娘は現在若い男と同棲しているそうです。この男の姓名はどこへ問い合わせても不明でしたが、この土地の者でないことは確実です。木戸六段と関係があるかどうかは知りませんが、同棲はオヤジサンの死後の出来事で、ちょッとインテリ風、都会風の二十一二の青年だというのです。もっとも、この人物が将棋をさしたかどうか誰も知っておりませんがともかく茶店の娘と若い男との交渉でいままでに私の方に判明したのは以上のことだけです」
 木戸が娘の顔に読んだ四五桂の謎は狂っていたのである。しかし、とにかくその日人が死んでいたことは当っていたのだ。野村はちょッと神秘的なものを感じて、木戸のために祝福したい気持になった。
「娘と同棲している若い男は、木戸かも知れない」
 野村はそう考えた。木戸が再び茶店を訪れた際に、狙いの謎は外れていたが、人死にだけは当っていたと判った場合に、同棲というコースをたどると仮定するのはやや無理筋に類しているが、人生、意外はつきものだ。とにかくその男を一見してみなければ気持がおさまらなくなったのである。娘の荒々しいのにはヘキエキだが、オヤジの死が娘の手によるものでない限りはオレのイノチも無事だろうと野村は心をきめて出発した。
 山上へ登りきると、うまいぐあいに裏手の畑で働いている男の姿を認めた。彼のセーターをきて野良をたがやしているのである。茶店の前をよけて畑へまわり、男の前へ立ってみると、まさしく木戸ではないか。木戸は彼を認めると、落ちつきはらって、笑った。さすがに勝負師のずぶとさであった。
「きのうお見えの噂をうけたまわっておりましたよ。よくわかりましたね」
「キミの奥方のカンバセにボクも四五桂を読んだのでね。もしやという
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