その気になって散歩にでただけのことであった。
 その日は対局の二日目で、まさに終盤にさしかかって激戦の火蓋がきられたところであった。まだ形勢はどちらのものとも判じがたいが、まさに息づまろうという瞬間だから、木戸はちょッと息をぬきたくなったのである。すこしだけ歩いてみたい気持であったが、宿をでて坂を降りると山陰をぬう静かな道がある。そこを歩いているうちに渓流の岸へでたのである。と、道の下の岩の上で魚釣りをしている野村の姿をみとめた。野村は文士でこの対局の観戦記者であった。対局をよそに魚釣りの観戦記者もないものだから、
「なんだ。野村さんじゃありませんか。ノンキなものだなア」
 と道の上から声をかけて降りて行くと、野村は苦笑して、
「しまッた! 対局はすんだのかい」
「いいえ」
「じゃア、どうしたわけだ」
「ちょッと息ぬきです」
 野村はあきれて木戸をみつめた。木戸はやっと二十の若者だ。C級の六段である。天才的な若者ではあるが、公式戦へでられるようになって三年足らず、駈けだしである。新聞社の勝ちぬき戦で強豪をなぎ倒して、名人候補と声の高い強豪津雲と顔があった。天才といえば相手も天才、クラス
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