のちがう大強豪とはじめて公式に顔があって若い木戸の勝つはずもあるまいが、津雲が苦戦すればお慰みと、新聞社では特にこの一局をとりあげて好局ができれば記事にするつもりであった。
 紺絣《こんがすり》の木戸は温泉旅館へ招かれて公式に手合するさえはじめてだ。そうでなくとも対局中に中座して散歩にでるなぞというのはあまり例のないことである。それに封建色の強いこの社会では大先輩を待たせておいて散歩は礼を失するも甚だしいというような考え方も濃厚だ。また対局中は神経が異常にたかぶるからノンビリ息ぬきの散歩なぞと余裕のある気持にはなれないのが普通でもある。それで野村は呆れたのである。
「本当に対局中なのかい?」
「ええ。夜中ぢかくまでかかりそうです」
「そうだろうな。立会人の小川八段がそんなふうに教えてくれたから安心して釣りにきたわけだが、しかし、キミもずぶといもんだなア。もっとも釣りをしながら、観戦記事が歩いてきてくれるんだから、ボクの方はこれに越したことはないがね」
「アレ。まだ一匹もつれてないや」
「まだ糸をたれたばかりだよ」
「ハッハ。腕前のせいでしょう」
 木戸は遠慮なく笑いたてた。社交的な冗談とちがって、まったく遠慮を知らないという感じであった。そのずぶとさに呆れたばかりのやさきであるし、腕前だけをたよりに生きている勝負師に腕前のせいでしょうと云われてみると、全然そうに違いないような情けない気持にさせられて、野村はちょッと気をわるくした。しかし木戸はそんなことにも気がつかぬふうで、「橋の向うの山は見晴らしがよさそうだなア。ちょッと行ってみよう」
 こう呟きを残して橋を渡って姿を消してしまったのである。向いの山は百五十メートルぐらいのものだが普通に歩いて二十分ぐらいはかかる道のりだ。木戸はそこへ登りつめた。まさに見晴らしがよい。ふりむけば海が見えるし、向うははるばると原野である。そこに一軒の茶店があった。農業のかたわら土間を茶店にしただけのもので、棚にはほとんど品物もなかったが、空ビンにまじって二三本のサイダーだけがあった。木戸はそれを一本のんだ。のみ終ってから、お金をもたないことに気がついたのである。
「こまったなア。明日もってきますから貸して下さい」
 とたのむと、そのとき娘の様子のきびしさに彼は目をまるくしたのであった。そのきびしさは借金とりのきびしさとは様子がちがって
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