してみたら手応《てごたえ》なくグラリと動く。逃げようかと思つたが思ひ返して揺さぶりながら、
「起きたまへ、君は……」
「…………」
 先生は泣きたくなつて、いきなりグイと手を差込んでそいつ[#「そいつ」に傍点]の骨ばつた肩を押へ、頸筋へ手を廻して引ずり起さうとしたら、全く棒を掴むやうにアッケなく細々と痩せた頸で、それが又死んだやうに冷たかつた。先生はドキンとして、併しもはや詮方なく怖々とそいつ[#「そいつ」に傍点]の顔を捻ぢ向けてみると、グッタリと眼を閉ぢて、土色の死色をして冷たくなつてゐるのは、ああ、さう、自分――さう、確かに斑猫蕪作先生自身であつた。
 先生は今度こそ本当に逃げようとしたが、打ちのめされたやうに、もう足が動かなかつた。
「助けて……」
 尤も声も出やしなかつた。暫くしてから、腹部に針金のやうに張つてゐた棒みたいのものが漸く少し弛んできたので、引きずるやうな足を曳いて逃げようと焦つてみた。どうにでもして逃げ出したいと焦つたけれど、さういふギゴチない身体のもどかしさと同時に、もうどうすることも出来ないのだといふ絶望が火の玉のやうに胸に籠つて、やがてそのへんの肉が粉のやうに砕けてゆくのが分つた。先生は絶望のしるしに手で頭を抱へようとしたが、うまく頭を押へることが出来ずに、手は大きな波のうねりとなつて頭の前後左右へグラグラとだらしなく舞ひめぐり、しつかと押へることが出来ないのであつた。
 もう逃げられないのだし、逃げたつてどうにもならないのだと分ると、先生は子供のやうに顔中を泪で汚してしまつて、フラフラと歩いて行つてベッドの上へ重つて倒れてしまつた。そして痩せこけた冷い奴の肩をつかんでそいつ[#「そいつ」に傍点]の胸へ顔を当て、本当にウォン/\泣きじやくつてしまつて、
「お母さん、お母さあん、お母さんてば……」
 それだけがボキャブラリイであるやうに、一生懸命にさう言つて泣き喚かずにはゐられなかつた。その喚きを何べんも何べんも繰返してゐるうちに、熱くるしい泪の奥へ声も身体も意識もだんだん縮んで細くなり、消えていつてしまふのが感じられた。

 翌日、重い頭を抱へて目を覚した斑猫先生は、何よりも先づ爽やかな雑沓へ慌しく飛び出して、明るい蒼空を時々見ながら、昨夜のことは、あれはみんな夢であるといふ風にしか思ひ出すことが出来なかつた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第八巻第四号」
   1932(昭和7)年4月1日発行
初出:「若草 第八巻第四号」
   1932(昭和7)年4月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
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