ために先生はなるべくならば陰鬱な部屋の窓から黄昏の空の動きやパラパラと降る星のあかりを眺めないやうにして、逍遥に疲れた時は花やかな喫茶室へもぐり込んで皿やフォークのガチャ/\と鳴り響く音に白い心を紛らすやうにした。
 そして又街へ出ると、ある時は飾窓《ウインド》を覗き乍ら寧ろ往来の邪魔物のやうにノロノロと歩いてみたり、又或時は素敵な敏捷さで人波をグングン追抜いてみたり、又或時は流されるままに漂うて同じ道を戻つてみたり其他様々な態度を用ひた。又或時は逍遥の群衆から二三の人を選び出して、乗物で見えなくなるまで追跡したりすることもあつた。老若男女を問はず若干の好奇心や好感の動いた場合にすることであるが、それとても無論軽い其場限りの悪戯で、その人々の印象を明日の日に残すことさへ稀であつた。そして人波の散る時分、賑やかな街も余程もう黒ずんで人間の数よりも自動車の数が目立つて多くなる時分に、先生も街を捨てて住居へ帰つた。雑沓の余韻が消えるまで先生は部屋の中でボンヤリしてゐて、それから数枚の頁をめくつて軈《やが》て電燈を消すのであつた。
 ある夜のことであつた。
 かなり夜更けてもう人波の散りかけた頃であつたが、先生は不思議な青年に目を止めたので、なぜともなくその後をつけることにした。尤もその青年はそれほど風変りなわけでもない。ただ夜更には、行人といへば、多く吹溜りの屑のやうに零《こぼ》れ残つた三々五々の連れ立ちであるのに、この青年は一人ぽつちで、それも至極淡々と羨ましいほど心なく、恍惚として静かな足を踏み流してゐる。ただそれだけのことであつた。先生はここに一人の肉親を見出でたやうな懐しい思ひがしたので、ふと一瞬に後をつけはじめたわけであつたが、暫しのうちに先生も亦道行く我を忘れてゐた。
 青年は有楽町でも止まらなかつた。日比谷をも素通りしてヒッソリとした濠に沿ひ尚も緩やかに歩むのである。やがて片側に厳《いか》つい建築の立ち並んだ辺りも通り過ぎて尚も暫く歩いたかと思ふと、さういふ建物に挟まれた一つの道へにはかに曲つた。そこはかなり広さもあるアスファルトの並木路で、人気なく死んだやうに静かであつた。それから青年はさういふ道を幾曲りとなく曲つて、軈て遂にやや明るさの花々しい電車路――それとても睡むたいやうに朦朧とした、もはや殆んど人気ない山の手の道であるが、兎も角も電車通りへ立ち現れ
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