か」
と云うと、
「えゝ、朝はね」
と、うなずいて、すぐ、食卓についた。ようやく睡眠が充分らしく、二日目の対局からは、もう睡そうな目はしなかった。対局は、持時間十三時間ずつ、三日間で打ちきるのである。
三日目の対局が、呉氏一目(乃至二目)勝、という奇妙な結果に終ったのが夕方五時頃であるが、終るやいなや、すぐ立って、食事の用意がすぐ出来ます、記念の会食の用意ができます、と追いかける声を背にきゝながら、
「えゝ、えゝ、失礼」
スタスタ、スタスタ、観戦の何十名という人たちが、まだ観戦の雰囲気からさめやらぬうち、アッという間に、真ッ先に居なくなっていた。
まったく、もう、自分一方の流儀のみ、他人の思惑などは顧慮するところがない。
将棋の升田八段は、復員服(呉八段は国民服)に兵隊靴、リュックをかついで勝負に上京、傲岸不屈、人を人とも思わぬ升田の我流で押し通しているようであるが、呉清源にくらべると、まだまだ、心構えが及ばぬ。
私は昨年十二月、木村升田三番勝負の第一局の観戦に名古屋へ行った。木村に連勝のあとであり、順位戦に一位となったあとでもあり、木村何者ぞ、升田の心は、いさゝか軽卒であり、思いあがっていた。
対局前夜に、私が相手になったのも悪かったが、彼は酒をのみすぎた。それから私と木村、升田三人で碁をやり、升田は酔いがさめて、睡れなくなり、殆ど、一睡もできなかったらしい。私も一睡もできなかった。酔っ払いは、酔ったら、すぐ、ねるに限る。酔いがさめては、ねむれない。木村は、酒は自分の適量しか飲まず、おそくまでワアワア騒ぐと良く睡れるたちで、自分の流儀通りに、ワアワア碁をやって、良く睡った。そして、翌日の対局は、木村の見事な勝となった。
我々文士でも、その日の調子によって、頭の閃きが違う。然し、文士は、今日は閃きがないから休む、ということが出来るが、碁や将棋は、そうはできぬ。だから、対局の日をコンディションの頂点へ持って行く計画的な心構えが必要な筈であるのに、あの日の升田は、それがなかった。
だから、対局も軽卒で、正確、真剣の用意に不足があり、あの対局に限って、良いところは、なかった。この敗局は、彼のために、よい教訓であったと思う。
呉清源には、そのような軽卒は、ミジンもない。人の思惑、人のオツキアイなど、全然問題としない。もっとも、神様のオツキアイは、する。然し、これが曲者で、この神様のオツキアイも、呉清源の偉さのせいだと私は思う。
勝負師とか、すべて芸にたずさわる者の心は、悲痛なものだ。他人の批評などは、とるにも足らぬ。われ自らの心に於て、わが力の限界というものと、常に絶体絶命の争いを、つゞけざるを得ない。当人が偉いほど、その争いは激しく、その絶望も大きい。
自己の限界、この苦痛にみちた争いは、宗教や迷信の類いに直結し易いものでもあり、その混乱、苦悶のアゲクは、体をなさゞる悪アガキの如きものともなり易い。双葉山や呉清源の如き天才がジコーサマに入門するのも、彼らの魂が苦悶にみちた嵐自体であるからで、ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才を笑うことは当らない。
別して、呉清源は、およそ人の思惑を気にするところがない人物で、わが道を行く、とことんまで、わが道であり、常に勝負は必死であり、一匹の虫を踏みつぶすにも必死であり、その激しさが、自己の限界というものと争う苦痛に直面した場合の厳しさは、言語を絶するものがある筈である。この男には、およそ、人間の甘さはない。芸道の激しさ、必死の一念のみが全部なのである。
対局、第一日目が終ったあとであった。本因坊が何を忘れてきたのだか知らないが、とにかく家に忘れ物をしてきたから、取ってきたいと言う。本因坊と呉清源とは一緒に風呂へはいったが、その風呂の中で、本因坊が呉氏にこのことをもらしたらしい。
風呂をでてくると、呉氏は読売の係りの者をよんで、争碁というものは打ちあげるまでカンヅメ生活をするのが昔からのシキタリであり、特に今回の手合は大切な手合なのだから、カンヅメの棋士がシキタリを破って外出するのは法に外れたことではありませんか、と、言葉は穏かだが、諄々と理詰めに説き迫ってくる気魄の激しさ、尋常なものではない。
蓋し、十数年前のことだが、呉氏がまだ五段の当時、時の名人、本因坊|秀哉《しゅうさい》と、呉氏先番の対局をやった。この持ち時間、二十四時間だか六時間だか、とにかく、時間制始まって以来異例の対局で、何ヶ月かにわたって、骨をけずるような争碁を打ったことがある。
この時は、打ちかけを、一週間とか二週間休養の後、また打ちつぐという長日月の対局だから、カンヅメ生活というワケにも行かない。
呉氏良しという局面であったが、この時、秀哉名人が、一門の者を集めて、打ち掛けの次の打
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