ち手を研究し、結局、前田六段が妙手を発見し、このお蔭で、黒の良かった碁がひっくりかえって、負けとなった。こういう風聞が行われているのである。
 だから、呉氏は、岩本本因坊の外出に断々乎として非理を説いて、ゆずらない。結局、呉氏の信頼する黒白童子が本因坊につきそって一緒に自動車で行き、本因坊は自宅の玄関で忘れ物を受けとって直ちに引返してくる、という約束で、ようやく呉氏の承諾を得た。
 このような勝負への真剣さ、必死の構えは呉氏の身に即したもので、人間の情緒的なものが、まじる余地がないのである。
 呉清源は、勝負をすてるということがない。最後のトコトンまで、勝負に、くいついて、はなれない。この対局の第一日目、第二日目、いずれも先番の本因坊に有利というのが専門家の評で、第一局は本因坊の勝というのが、すでに絶対のように思われていた。三日目の午前中まで、まだ、そうだったが、呉氏はあくまで勝負をすてず、本因坊がジリジリと悪手をうって、最後の数時間のうちに、自滅してしまったのである。
 もとより、勝負師は誰しも勝負に執着するのが当然だが、呉氏の場合は情緒的なものがないから、その執着には、いつも充足した逞しさがある。坂田七段は呉清源に気分的に敗北し、勝っている碁を、気分によって自滅している。呉清源には、気分や情緒の気おくれがない。自滅するということがない。
 将棋の升田は勝負の鬼と云われても、やっぱり自滅する脆さがある。人間的であり、情緒的なものがある。大豪木村前名人ですら、屡々自滅するのである。木村の如き鬼ですら、気分的に自滅する脆さがあるのだ。
 それらの日本的な勝負の鬼どもに比べて、なんとまア呉清源は、完全なる鬼であり、そして、完全に人間ではないことよ。それは、もう、勝負するための機械の如き冷たさが全てゞあり、機械の正確さと、又、無限軌道の無限に進むが如き執念の迫力が全てなのである。彼の勝負にこもる非人間性と、非人情の執念に、日本の鬼どもが、みんな自滅してしまうのである。
 この対局のあと、酒にほろ酔いの本因坊が私に言った。
「呉さんの手は、当り前の手ばかりです。気分的な妙手らしい手や、シャレたような手は打ちません。たゞ、正確で、当り前なんです」
 本因坊が、現に、日本の碁打ちとしては、最も地味な、当り前な、正確な手を打つ人なのであるが、呉清源に比べると、気分的、情緒的、浪漫
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