らしく、生活危機は人間どもの問題だけではないのである。ジコーサマの生活危機はまさに深刻をきわめているから、神様の生活を実質的に一人の腕で支えている呉氏の立場も一様のものではなく、律義|名題《なだい》の呉氏も、神様のためには、人間の約束を破りかねない危険があった。それで、読売が慌てた。係りの黒白童子の苦悩、一時にやつれ果て、食事も完全に喉を通らず、坐ってもいられず、ウロウロしているばかりであった。
 幸い、呉氏は現れた。夜も更けて、十一時半、焼跡の奥のずいぶん淋しい不便な場所だが、どんな乗物を利用してどの道を来たのやら、まさしく風の如くに現れたのである。玄関に当って、ワーとも、キャーともつかないような女中たちの喚声があがる。その喚声を背に負うて、スタスタと座敷へはいってきた呉氏。二間つづきの座敷の入り口で、立ったまゝ、
「おそくなりました」
 と云ったと思うと、うしろから、女中の声で、お風呂がわいております、と云う。それをきくと、ウサギの耳の立つ如く、ピョンとうしろをふりかえって、
「ア、お風呂。そう。ボク、オフロへはいりたい。じゃア、失礼して、オフロへはいってきます」
 座敷の入り口から、クルリとふりむいて、お風呂へ行ってしまった。
 翌朝、呉氏の起きたのは、おそかった。私たちは、もう食卓についている。最後にやって来て、設けの席へつこうとした呉氏、立ったまゝ、上から一目自分の食膳を見下して、すぐ女中をふりかえり、
「オミソ汁」
 と、たゞ一声、きびしく、命令、叱責のような、はげしい声である。あいにく、呉氏の食膳にだけ、まだミソ汁がなかったのだ。
 見ると、呉氏は、片手に卵を一つ、片手にはリンゴを一つ、握っている。持参の卵とリンゴとミソ汁だけで食事をすまし、朝だけはゴハンはたべない。
 その日は睡眠不足で、対局中、時々コックリ、コックリ、やりだし、ツと立って、三四分して、目をハッキリさせて戻ってきたが、たぶん顔を洗ってきたのだろうと思う。
 その翌日も、呉氏はおそくまで睡っていた。そして、もう一同が食事をはじめた頃になって、ようやく起きて来たが、食卓につこうとせず、ウロ/\とあたりを見廻し、やがて自分のヨレヨレのボストンバッグを見つけだして、熱心に中をかき廻している。さすがに敏感な旅館の女中が、それと察して、
「卵は半熟の用意がございます。リンゴも、お持ち致しましょう
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