、どうしても首を切られて歩いてみせなければ済まなかつた特殊な環境といふものは、変なものだ。
 首を切られた話には、落語に、かういふのがある。
 或晩男が夜道を歩いてゐると、辻斬に合つて首を切られた。ところが辻斬の先生よほどの達人とみえて、男の方はチャリンといふ鍔音をきいたが、首を切られた感じがないし、首も元通り身体の上に乗つかつてゐる。ザマ見やがれ、サムライなんて口程もない奴だ、と男は道を急ぐうち行手が火事になり、混雑の中へくると首が切られてゐるのに気がついて、オットぶつからないでくれ、首が落ちるから、と首を押へて歩いてゐたが、我慢出来なくなり、首を両手で提灯のやうに持ち上げて、オーイ、危い、ドイタ/\と走りだした、といふ話がある。
 どちらの話も「武士」といふ生活がなければ生れる筈のない話で、手練《てだれ》の達人に会ふと首をチョン切られても、切られた気がしないとか元通り首が乗つかつて息をしたり喋つてゐるなどゝいふ痛快な思ひつきが、僕は無類の骨董を見るやうに大好きだ。町人文学と一口に言ふけれども、武士があつての町人文学で、町人だけ切り放された生活などゝいふものはない。町人文学には武士のカリカチュアが沢山現れ、直接武士のカリカチェアがない場所でも、本源は武士の生活に対立して発してくる場合が多い。
 ちよつとした口論の果が、首を切られてから歩いてみせなければならない、といふ、全くもつて馬鹿の骨頂と言はざるを得ぬ結論に到達する。こんな愚かな命は何百あつても足りないといふ気がするが、これが全然冗談でなく、真実無二の生活として行はれてゐた厳たる環境があつた。実際武士といふものは、ユーモアのない世界である。笑つて済ませる余裕すらない。
 僕は時々考へるのだが、昔の武士に今の漫才でも見物させる。ズラリと何百人威儀を正して見物席に控えてゐる。漫才の女が男のオデコをたゝいたり、男が尻ふりダンスを始めても、全然笑はぬ。呟きもなく、咳もない。妖怪じみた眺めだらうと思ふ。
 武士だつて漫才みれば笑ふよ。そんなことがあるものか、と言ふ人があらうけれども、然し、首を切られてから歩いてみせなければならなかつた、といふのは、ツマリ、かういふ笑を持たないカミシモ姿の世界なのだ。かういふ姿で実在してゐる。
 ヨーロッパ人に言はせると、日本人ぐらゐ笑ふ国民はない。オクヤミの時でも笑つてゐる、と言ふけれど
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