得ないものだ。薄給の教師が妻子すらも養い得ず、意を決して天草商事の入社試験をうけ、その翌日には、モーニングをきせられ、有無を云わさず箱根へ連れだされて、監禁をうけ、一時は狂気に至るテンマツ、天人ともに泣かしむる、とは、この如き悲惨、誇りなき人生でなくて何であろう。
 この手記こそは、単なる実話の埒を越え、百万人の心をとらえた読物であったが、実は正宗菊松の本当の手記ではない。サルトルとツル子の合作なのである。なぜなら、菊松は、病院に伏して、昏々と眠っていたからである。
 それから、又、一と月ほどすぎた。
 正宗菊松はふと目を覚した。
 目にうつるものが、まったく記憶にないのだ。ヤヤ、第一、寝台の上にねている。
「ハテナ?」
 おどろいて、身を起しかけると、
「危い!」
 声がして、とんできて、支えた人々。彼はそれを見て、驚いて、声をのみ、やがて、ブルブルふるえだした。
 かけよって支えたのは、彼の妻子ではないか。田舎へ疎開したまま、まだ東京へ呼び迎えることもできなかった妻子たち。
「いったい、どうして?」
「あら、おめざめ」
「イヤ、ここは、どこだ?」
 彼の妻は笑いだした。目に涙があふ
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