。マニ妙光」
 頭の上に手をすり合わせる。怖れおののいて、声がワナワナふるえる。すり合わせる手もワナワナふるえて、そこから声がでるような秋の虫のようであった。
 のけぞった中年の男が、おもむろに身を起して、前へかゞみ、
「ガアーッ」
 突如として、イブキをかけた。爆心点はまさしく正宗菊松の頭上である。彼は呆気にとられて頭をちゞめたが、
「コウーラ、キサマ、不敬者ウ。魂をぬいてくれるぞう」
 怒り狂った大音声がきこえ、しまッた、と思った時には、彼は力いっぱい肩を蹴られて、後列の人々の間にころがっていた。
 正宗菊松は大失敗を犯したのである。彼はそれを蹴とばされる一瞬前に気がついた。自分の右に坐っている半平も、左側のツル子も、護衛の人々と同じように、畳に伏して、手をすり合わせていることを発見したからである。彼が蹴とばされて倒れたのは、坊介とノブ子の間であった。この二人も、その隣の才蔵も、例外なく、畳にふして、頭上に両手をすり合わせていた。
 神の使者は容赦がなかった。
「コウーラ、不敬者ウ。コウーラ、コウーラッ」
 一叫びごとに足をあげて、正宗菊松を蹴りつけ、踏みつけた。
 先程まで、あれほど敬意を払ってくれた才蔵も坊介もノブ子も、彼を助けてくれようとはしなかった。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 彼らは一心不乱に手をすり合わせてワナワナと拝みつゞけているのみである。自分たちの間へ彼が倒れて、踏みつけられているというのに。
「お助け下され。相すみません」
 正宗菊松は必死に叫んだ。
「私が悪うございました。お助け下され」
 菊松は、踏みつける足をすりぬけて、身をねじり、ガバと畳に伏して、頭上に両手をすり合わせた。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
「コウーラッ」
 神の怒りは、まだ、とけなかった。神の使いは、菊松の両手をつかんで、ズルズルとひきだした。
「コウーラッ」
 神の使いは片足で菊松の頭をふみつけ、額をしこたま畳にこすらせた。
「悪うございました。相すみませぬ」
 菊松は、とうとう泣きだした。どうして、自分一人が、いじめられなければならないのだろう。彼はこの時ほど痛烈に少年のころを思いだしたことはない。彼は弱虫で、馬鹿正直で、そのくせ、すこし、ずるかった。彼は悪太郎にそゝのかされて、手先に使われるたびに、いつも捕えられて、叱りとばされるのは自分だけであった。
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