か。権力ある者は、その子供の罪まで警官が見逃すという、日本人は昔から泣く子と地頭に勝たれぬ、権力崇拝家であり、さればこそ権力には盲目的に屈服し、したがって又、自らが権力を握れば、これをフリ廻して怪しまない。
 私のところではノベツ停電するから、停電を何より怖れる私はガスもでず薪もないが電気コンロを使わせない。すると未明に私の家の塀を破って持って逃げる奴がある。まったく無理もなかろう。然し、塀を破られてはコッチも困るから、ガラリと窓をあけてコラと云ったら逃げること逃げること、私は朝まで起きているから、あんな乱暴な音をバリバリ、とたんに分る、慌てゝ盗む初心者にきまっている。窮すれば、ぜひもない。
 然し、窮すれば是非もない、というので罪を犯すことは許されない。だから、犯人は雲を霞と逃げる。仕方がネエや、盗む方が悪いか、と云って私に食ってかゝりやしない。
 けれども、電燈をとめているオカミの方では、石炭がない、水量がない、ないものは仕方がない、窮しているから是非もない。あたりまえだ、という。
 米がない、ないから仕方がない、欠配だ、という。泥棒は居直らず逃げるけれども、オカミは居直る。狸御殿のトノサマは約束の品物を渡さないカドによってサギだというが、オカミは約束の品物をくれない、金はとらないからサギじゃないのかな、然しサギの性格で、尚その上に、自らの罪を自覚することを知らず、国民に耐乏をとき、道義のタイハイを説教することも忘れない。
 役所のやることに不服があって役所へ談判に行くと、こっちは知らない、もっと上の役所からの指示だという。
 軍服事件だの何々事件の連中も、私は知らない、あの人があの倉庫にあると云った、だから有るものと信じた、と云う。サギ事件、役所の役人、同じ性格じゃないか。どこにも道義など有りやせぬ。
 パンパン、ヤミ屋と、オカミのやることゝ、どっちが道義タイハイしているか。
 パンパンをやるには勇気がいる。ヤミ屋となるにも勇気がいる。罪や転落と戦う大勇猛心がいる。役人にはいらぬ。役所という座席に坐ることによって、罪を自覚することもいらないばかりか、わが欠配を強要し、それに服せざることが悪徳であると言うことすらできる。
 私は然し、それが大罪だと云うのではない。大罪ではない。自らの罪を自覚せざる点に於て、隣組座やマーケット座と同じ罪であり、自らの罪を自覚して自
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