が咎めてか、筆紙を取りよせて一句示した。
身は童貞にして清風あふれ
千軍万馬退くを知らず
「キザなことは、よせ」
余はその紙片を破ってすてた。眼下に日本海が鏡のようにきらめいている。左に居多の浜、右に直江津の浜。余の胸に童心がよみがえった。
「一泳ぎしてくるぞ」
「それに限りますな。それまでに昼食の用意を致させましょう」
余が旅館の裏口から裸で出ようとすると、縁側の柱にもたれてうたたねしていた女がびっくりしたように目をさまして、
「下駄はきなれ」
と云った。とかく女はねぼけるものだ。砂丘を降りて海まで百メートルの道を、裸のくせに下駄をはくバカはなかろう。
しかるに余が砂丘を半分降りたころには、足の裏の焦熱地獄に気も狂わんばかりであった。余は荒れ馬の如くに砂丘を降り、デングリ返しを打ったけれども、まだ海までは七八間の距離があった。さらに二度デングリ返しを打ち、走り幅飛を二回やったがまだ届かず、頭を先にして飛びこんだが、そこはまだ海ではなくて波の打ちよせる汀であった。つまり余は汀の砂中に顔の半分を埋めたのである。しかしその痛さの如きも、焦熱地獄に比べれば物の数ではなかったのである。
旅館全体にゲラゲラと笑いどよめく声があがった。振り仰ぐと五十人あまりの女が縁側から余を眺めて笑っているのだ。
余が一泳ぎして休んでいると、五十人あまりの女性がそれぞれ海水着の姿となり、それぞれ下駄をはいて静々と砂丘を降りてきた。先頭の女は余分の下駄一足をぶら下げており、
「これ、アンタにやるさ」
と余の鼻先へ突きだした。みな相当の年配であった。
「あなた方は何者だね」
「PTAの婦人連盟らがね」
彼女らは余の領内の女傑もしくは女の顔役とも呼ぶべき連中であるらしい。余が謙信であることを知る者のなかったことは幸いであった。
彼女らは概ね余よりも水練が達者であったが、中には佐渡まで行くつもりかと思われたほど沖合遠く泳ぎ去り平然と泳ぎ戻った女傑も三四いたのである。いずれも余と同年配、三十二三の額に小ジワの現れた女性であった。面相は香《かんば》しからぬものがあったが、悠々たるその態度。余が感じたのは「馬力」の一語につきる。余は戦場の兵隊にもかかる馬力を感じたことはなかったのである。
馬力は戦力であるか。もしくは単に馬力にすぎないのであるか。かかる馬力が春日山城に安泰をも
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