くいとめて、くずれるたびに守勢を立て直したが、そのうちに信玄の本陣は次第に前面へ押しだされ、敗兵が後にまわって守勢をとる始末になった。
 その隙を見て余は突如一騎駈けだした。信玄の姿を認めたからだ。ほぼ最前面に姿をさらけだしていた。その一刻を失えば、信玄は再び部下に守られてしまう一瞬であった。余も、あせっていた。必死に馬を走らせ、また馬を踏み止めて、順慶長光の太刀ふりかぶり、
「信玄、覚悟!」力いっぱいふり下した。
「下郎、さがれ!」
 信玄は軍配をかかげて余の太刀をふせいだ。彼の狂乱した目が見えた。余の太刀筋に狂いがあり、甚しく意にみたぬものを感じたが、いかんとも詮方ない。二太刀。三太刀。信玄の肩先にかなり深く斬りつけた手応えを感じたが、彼の姿はまだくずれなかった。四太刀目こそはと振り上げたとき、余の馬が躍り立って駈けだした。敵兵の槍に馬の尻を突かれたのだ。余の馬は敵陣のただ中を駈けぬけて、信玄の姿は遠く離れてしまったのである。
 敵方に一万二千の援軍が馳せつけた。それからは我が軍の不利であった。夕頃、余は残兵をまとめて善光寺に退いて集合した。敵も兵力をまとめて海津城に入る。戦は朝五時にはじまり、夕方五時に終ったのである。わが軍は死者三千七百。負傷者六千。敵軍は死者四千六百、負傷者一万三千。
 山蛸を逸す。悲しきかな。



底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第三五号」
   1953(昭和28)年8月28日発行
初出:「別冊文藝春秋 第三五号」
   1953(昭和28)年8月28日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年4月15日作成
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