たままである。しかも余は依然として歌舞音曲にふけっているから、我が将兵の中には再び安からぬ心をいだく者が起った。余は彼らに諭して、
「我に倍する兵力をもつ信玄が茶臼山の本営を撤して海津城に勢力の合一をはかった心事を考えよ。我が策をはかりかね、怖るる心の故に、倍する兵力を持ちながら、自軍の合一を急ぐのだ。もとより合一した以上は今度は何か仕掛けるであろうが、怯える心の故に、敵の仕掛は慌てているか、用心しすぎているか、どっちにしても迫力を欠くものにきまっている。敵の不安をさらに掻き立てるために、我が軍はいつまでも二分したまま平然と敵の仕掛けを待つがよい。我が備えが不合理であればあるほど、敵の怯えは深まるのだ」かくて余が将兵の動揺はこれを防ぐことができた。
 さらに日を過ぎること十日。ついに信玄の陣営に出動の動きが起った。日没に至りおびただしい炊煙のあがるのを認めたのである。茶臼山を撤して海津城に合一をはかった時に、すでに信玄は余が術策に負けたものというべきであった。なぜならば、海津城の動勢も、その四囲の山々やまた川中島の動きも、すべて余の本営から一見えであったからだ。彼らは日中は動くことができない。夜間のみの機動力は限られている。彼らの策戦はすでに迫力を失っていたのである。
 九月九日の夕暮れ、敵陣の動きに異常を認めるや否や、余は幕僚を呼び集め、
「日没と共に諸方に兵を伏せ、わが陣に近づく者は百姓たると女子供たるとをとわず、全てを殺して一人も帰すな。決して声をかけるな。無言で斬りつけ、全てを殺せ。行く者も近づく者もすべてを敵の間諜と思いきめて斬り殺せ。一人といえども斬りもらしてはならぬぞ。したがって、我が軍は間諜をだすな。すでに我から間諜をだす必要はない。敵の策戦は山伝いに余の背後をつくか、前面に兵をくりだすか、いずれかしかない。我が軍は敵に先だち川中島の真ッただ中に総勢をくりだすのだ。敵の間諜すべてを斬り伏せて帰すことがなければ、我が必勝は明かだ」余の命令一下、日没と共に余の軍は行動を起した。
 余は善光寺の五千の兵に連絡しなかった。途中に敵が間者を伏せていることは明かだからだ。あるいはすでに敵の間者は善光寺界隈をくまなく封鎖していよう。もしも善光寺の我が軍が動きだせば、敵は我が策戦をさとるのだ。余ら八千は五千の援兵を放棄することによって、敵のノドにアイクチを擬すること
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング