中一万三千の兵力を二手に分け、一は北国街道より、一は富倉峠より信濃に入り、善光寺に休憩。折から栗の季節であるから、栗ヨーカンを食ったのち、大荷駄と五千の兵を善光寺に残し、余は小荷駄と八千の兵を率いて川中島を横切り、妻女山に本陣を構えたのである。
 松代方面からの山脈が川中島の中央部に突入して終っているのが妻女山で、山脈の終点だから最も低い山ではあるが、川中島へ突入しているために川中島の全貌が手にとる如くに見分けられる。北方は遠く善光寺まで見通しだ。
 また海津城は三キロ東方の眼下にあり、その彼方に松代がある。妻女山につながる山脈は松代の背面を迂回しており、この山々の麓には過ぐる太平洋戦争に日本軍部が築きかけて終戦となった松代大本営の地下室への入口のいくつかが望見できるのである。天皇の居室に当るところは、山峡に入口が設けられており、ためにここから見ることはできない。随行の放善坊は、海津城の動勢よりも松代大本営の設計に多大の興味を覚えた如くであったが、余もまた若干その傾きがあった。
「海津城の後左に大きな石塁をつんだ入口らしいのが見えますな。あの入口の向う側に大本営の正面入口があるらしいですぜ。アレ、アレ。右手の山々には小さい入口がタクサンあらア。ずいぶん掘りまくったものですなア。その穴の大半が素掘りのうちに終戦を迎えたから、諸所が崩れて穴ボコの大半が使い物にならないそうじゃありませんか。せっかく掘った穴が崩れるぐらいバカな話はありやしないよ。我々が穴を掘るのはその穴たることが身上だからじゃないか。穴が崩れるために穴を掘る奴はいないや。なんだって、また、穴が出来上るまでねばらなかったんでしょうかねえ。モッタイない話じゃないか。この穴ボコまで崩れちゃア、太平洋戦争なんて、どこにも取柄がありやしねえ。せめて穴ボコが完成して、入場料をとって見物人を入れて、三千年か五千年たつうちには元がとれるじゃないか。あの戦争には人が居ませんでしたねえ」
 国やぶれて山河ありという。余もまたいつの日か、明日か、今日か、身は死して草に伏し、山河に帰する日のありと思えば、はるかに大本営跡を望見して、感慨ただならぬものがあった。
 過ぎし太平洋戦争も、今日の余も、ともに最後の本営を川中島に対して設けたることの奇遇をあやしむのだ。かの時代と今日と、戦略的に共通したところは一ツもない。兵器も戦術も異な
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