るしいオカミサンに見えるのだが、キゼンたる魂と、烈々火のような独立精神の権化なのである。息子は養鶏をやったが思わしくなかったので、ブローカーに転業して母親の旅館へせッせと物資を売りこんだ。ところが母親たるオカミサンが値切るだけ値切るので、全然商売にならないのである。息子は怖れをなして独立の商業を断念した。母親に売りこんでもモウケがないのだから、よその主婦が相手では売るだけ損になるだろうと世の怖しさを知ったのである。あきらめが早すぎたというものだ。彼は運わるく東京中で一番怖るべき婦人のところへ、一番先きに、一番多く物資を売りこみすぎたのである。彼は独立の商法をやめて銀行員となり、殺人鬼の襲撃以外には平和な一生を約束された生活につくことができた。
姉さんの激しい気性に圧倒されて育ったせいか、マダムも一通りの負けギライで相当のスポーツウーマン、勝負ごとに相当強いらしいけれども、烈火の気性は全然ないのである。ある日、女中が一冊の多彩の花模様の日記帳を持ってきた。スミレと星と花と雪、これをタカラヅカ調というのかナ、それにしてもこの日記帳はタカラヅカ幼稚園、最低学年用のものに相違ない。
「マダムのお嬢さんにたのまれたのですけど、生れ月日の下へサインして、感想欄のところへ何か感想を書いて下さいッて」
なるほど署名欄は三百六十五日の日附になっていて、ところどころ生れた月日の下に誰かの署名がある。私も自分の誕生日のところへ署名した。
「マダムのお嬢さんは、いくつ」
「十九です」
「ホントかい?」
「いまのお嬢さん方はこれが普通でしょう」
そうですかねえ。怖るべきはタカラヅカ。しかし、オカミサンの娘に生れると、十九になってこんな日記帳をたのしんでいることはできないのである。
看板は碁の旅館であるが、何であれ大手合や勝負師が好きな旅館で、朝日へ手をまわして将棋名人戦もここでやった。私は見に行かなかったからハッキリ記憶がないが、木村大山が二対二のあとの第五局ではなかったかと思う。もっとも読売の方は、それまでにも碁のほかに将棋の方でも時々ここを使ってはいた。読売の将棋は呉清源を一手に抱えている碁にくらべて劣勢であるからそれまで問題にならなかったが、将碁名人戦の定宿の一ツになると、碁の旅館の看板ではさしさわりがあるから、その時以来、辻々に立てた碁の旅館の看板をおろしてしまったのである。
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