の中の誰であるかということを正しく判断するまでにはほぼ三年の歳月を要したのである。
 姉サンだけあって、オカミサンの才能は抜群らしい。デブデブふとった女将タイプとはちがって、小柄の痩せぎすのいかにも女らしい美人であるが、見かけによらぬ敏活なところがあるのである。ゴルフとダンスは達人の域だそうだ。碁は増淵四段に師事し、旅館業をはじめてから習い覚えたのが、五年目に初段格。毎週一回英国婦人が英語を教えにくる。バイヤーの旅館だから英語の心得がいるのである。私が時々仕事部屋に使う離れの附属座敷が教室で、勉強の様子が手にとるように聞えてくる。はじめは一家族、女中に至るまで出席していたが、自発的に脱落して、いまではオカミサンがただ一人の生徒である。彼女の会話の稽古は閃くままに間違った単語を喋りまくるという心臓型であるが、閃かない時には「エエット」と日本語で考え、先生が単語のまちがいを正してやると、「ア、シマッタ」と呟く式の稽古ぶりである。しかし尚もひるむところはなく孤軍フントウ稽古をつづけているところ、見かけとちがってオカミサンは剛気であり、大そう負けギライらしい。マダムも相当の負けギライであるが、姉サンの実力にはシャッポをぬいでる趣きがある。
 オカミサンが碁に凝って増淵四段に師事して以来、女中に至るまで碁をうち、ついに「碁の旅館もみぢ」という異様な看板を辻々へ揚げるに至った。碁の旅館といえば人は碁会所の観念を旅館に当てはめる。碁会所というものは、むさぐるしく小さい所である。お金持や、貧乏人でも気のきいた人は碁会所などはひらかない。碁の旅館などと看板をだせば先ず普通に人が考えるのは、小さくて汚い旅館、ほかに自慢の種がないから、亭主が多少碁に腕に覚えのあるのを頼りに窮余の策をめぐらしているのだろうということだ。こんな大邸宅大庭園を擁して碁の旅館とはピント外れのようだが、外れるどころか大当りに当ったのだから、今や日蝕族のピントは日本を征服するに至るだろうと思われるほどである。つまり財界官界などのお歴々や会社官庁などがここのいくつかの広間を碁会に使用するに至って、彼女らの日蝕は終り、かの白光サンたる太陽が再びきらめきはじめたのだ。つまり碁会を縁に普通の宴会席に移行したからである。したがって日蝕族の神様は碁であり、つながる縁で私のようなヘボな横好きでも大そう厚く遇せられるという思いがけ
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