プらしいものはなかったが、塚田にうち負かされて名人位を落ちた直後の一年はサンタンたる不成績であった。木村ほどの豪の者でもそうだ。塚田は名人位を失ってのち、いまだに混迷状態から脱け出せない。碁の藤沢は九段を得てのち甚しく不成績であるし、木谷も長いスランプがうちつづいている。
すべてスランプというものは、技術上のことではなくて、精神の不安定がもたらすのであろうが、大山にはそれがないように見えるのである。
塚田が名人位に就いたとき、最初の挑戦者となったのは若冠二十五の大山であった。彼はB級から一躍とびあがってA級の上位三者をなぎ倒して挑戦者になったが、その落付きと年間のめざましい戦績から、世間の大半は彼の勝利、大山次期名人を疑わなかったようである。私もそう思った。
大山は若年にして老成。礼儀正しく、対局態度は静かで、一言にして重厚という大そうな人物評価を得ていた。観戦者が筆をそろえて、彼の重厚な人柄を賞讃していたものだ。
ところが、この名人挑戦対局に至って、いちじるしい変化が起った。彼の重厚な人柄が一変していたのである。倉島竹二郎君の語るところによれば、ただ、呆れるばかりであったというが、不遜とも何とも言いようがなく、すでに自分が名人にきまったかの如く塚田をなめてかかり、それが言行の端々に露骨に現れ、正視しがたい生意気、無礼な態度であったということである。塚田がよく奮起してこの思いあがった小僧をひねりつぶしたのは大手柄であった。
大山の無礼不遜な態度は観戦した人々によって厳しく批判された。敗れた彼に同情した者は――ヒイキは別にして、公平な将棋ファンには殆どなかったようである。彼の敗北を惜しんだ者もいなかった。思いあがった小僧が名人にならなくて良かったというのが万人の胸のうちであったのである。
負けた上に、これぐらい世間のきびしい批判をあびれば、誰しもクサルのが当り前だ。ましてや初陣そうそうのことである。ところがこの若者は古狸でも三四年は寝込むようなきびしい悪評の中で、冷静に、動揺することなく、またしても順位戦に好成績をあげ、わずかに木村との最後の挑戦者決定戦に敗れたが、A級順位戦では彼が第一等であったように記憶する。
次の年もA級優勝、挑戦者となり、はじめ二敗、つづく二局を二勝して二対二にもちこみ、第五局目モミヂの対局に於て、
「ぼくの勝ちですよ」
言々句
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