ったけれども、時々大安吾になるのは、治らない。モミヂ宿泊中とてもそうで、フッと大安吾になったが最後、風となってどこへ消えたか、誰にも分らない。私自身も翌日目がさめるまでは、どこにいるのか分らぬのである。というのは、モミヂを出発する時から前後不覚に泥酔しているからである。サンダルを突ッかけて、ちょッと買い物の途中から、気が変って行方不明になることもある。
 さてその日はユカタに下駄ばきでいずれへか立ち去った。人の話をしているようだが、どうもこの時は仕方がない。ふだんはそんなに酔うことがないのだが、この日は日中から来客があって泥酔したのである。こういうこともあろうというので、新聞社、雑誌社、モミヂ旅館、いずれも要心おこたりなく、上京宿泊中は誰にも知らせず、どこにも分らぬように仕掛けが施してあるのだが、この時は原稿に一段落してちょッとヒマがあったから、折からの来客と共に酔いつぶれたのだろう。
 翌朝、目をさましたところは九段である。その待合の女将は今は故人になった落語家の雷門助六の奥さん。角力《すもう》のように背が高くてデップリふとっていて、大酒のみで、ジメジメしたところのない人物である。人生を達観していて一向にクッタクがない。こういう豪傑然とした婆さんは珍しいが、抜けるところは甚しく抜けていて、いわゆる女将型のりりしいところはなく、ノンビリ落ちつき払っているだけなのである。
 私が目をさますと風呂の用意ができている。一風呂あびて、婆さんと飲んだ。
 私がモミヂから着て出たユカタは大男の私にはツンツルテンであった。
「ウチにちょうどよいユカタがあるよ」
 と云って、婆さんが持ってきたのは、九段の祭礼用のお揃いのユカタであった。ちょうど九段の祭礼の前夜か前々夜に当っていたらしく、花柳街はシメをはりチョウチンをぶらさげていたのである。
「まだ私は手を通していないのだから。これならちょうどよろしいわよ」
 という。なるほど、婆さんのユカタなら私に合うわけだ。五尺五寸五分とかいう大婆さんなのである。
 婆さんと酒をのんで酔っ払い、じゃア、サヨナラと自動車をよんでもらって午《ひる》ごろ無事モミヂへ戻ってきた。私は着て出たユカタが変っているのを忘れていたのである。抜け作の婆さんも酔っているからそんなことは気がつかなかったろうし、気がついても気にかけることのない大先生なのである。
 そ
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