まつた。これでネヂがゆるんでゐるとは、大自然といふ奴はまことに意外な細工師ぢやないか! 豪華本とか楽譜とか軽く抱へて街を歩く、上品でうつたうしくて、よほど心臓の男でもなくちや口説くさきに諦めてしまふ。だから八度ぐらゐの結婚ですんだやうなわけだらう。最上清人はとたんにお客といふお客を嫉妬して、いかにして一人ひそかに秘蔵すべきか、むやみに不安になりだした。
 養命保身。これが宇宙そのものでなくて、なんであるか。心臓がブルブル、うつかり喋ると声がブルブルして、心のうちを見ぬかれるから、無言、鑑賞する。見れば見るほどブルブルするばかり、なか/\喋ることができない。
「お名前は?」
 第一声。まづこれ以上は喋られない。娘はギクリと顔をあげたが、にはかにポッと上気し、目に熱がこもつて、かすかにほゝゑむ。
「私、西条衣子です。どうぞよろしく」
 ネヂのゆるんだ声ではないから、最上清人は狼狽して、
「あなた、お料理できる?」
 娘はうつむいてしまつたが
「私、家政婦、いやだわ」
 とオカミサンに訴へる。清人は肱鉄砲で射ぬかれたやうにうろたへて、
「いえ、お料理は僕がつくる」
「女中さん、ゐないの」
 ジッと見つめる。まさにテストをうけてゐるのは清人の方だから、問答無益、ポケットへ手をつッこんで財布をとりだしつゝ、
「女中ぐらゐ、志願者がありすぎるのさ。僕のところぢや白米をたべさすから。しかしコックがゐないから。戦争このかた、十年ちかく高級料理がつくれなかつたから、腕のよいのがゐないんだ。僕はお料理の方ぢやパリの一流のレストランで年期をいれたもんで、今の日本のお客ぢやモッタイないけど、人手がなきや仕方がないからさ」
 一万五千円ポンと投げだす。自殺途中の道草のヤブレカブレといふところだが、ヤブレカブレぐらゐで人間気前がよくなりはしない。これはもうゾッコンの思召《おぼしめ》しをバクロに及んでゐるから、天妙教のオバサンありがたうといふのもオックウな顔で、つまらなさうにお札を数へながら、
「女中がゐなきや困るわね。この子が可哀さうだわよ、旦那、うちから誰かひとり、さうしませう。さうしていたゞきませうよ。お気に召したのがをりませんでしたか」
「どれといつて、ゐなかつたね。料理屋ぢやア妖怪変化がお米を炊くわけぢやアないからね」
「その代りみなさん大変な働き者よ。衣ちやん、玉川さんをおよびしてお
前へ 次へ
全82ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング