とってはもう雪国が雪国でなくなったとしか考えられない。太陽の光をもとめてイタリアへ馬車をいそがせたゲーテにはなはだしく同感したりした雪国の少年の悲しさももうなくなったと見るべきであろう。すくなくとも連日私の頭上にまぶしくのどかにかゞやいていた雪国の秋と冬の太陽を見あげて、私はそれを痛感せずにいられなかった。
この天候異変が新潟ばかりでなく雪国全体のものだとすれば、そして新潟ばかりでなく秋田や山形の水田にも二毛作ができるようになれば、日本の食糧事情も一変するようになるだろう。しろうと考えというものかも知れないが、雪国で生れて秋なかばからの一冬にかけて、太陽を見ることのできないせつなさにしょうすいするような思いで育った私が、冬の頭上に連日かがやいているのどかな太陽を見れば、もう雪国は終ったと考え、越後平野を関東平野と同じように考えてしまうのも当然だと思うのである。関東の水田はいま掘りかえされて麦畑に変りつつありこれから麦ふみが始まるのだが、新潟のあの太陽の下で同じことができないというのが私には奇妙に見えて仕方がなかったのだ。
なにぶんにも旅の出発直前に雪国の冬の暗さについて書いたばかり
前へ
次へ
全34ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング