、今日はどれぐらいの入りかということが切符を買う前にわかるから、自転車が多すぎる時は敬して遠ざかり、よそへ行くことができる。この自転車数と館内の人員数との比率は一定していて、狂ったことがなかったのである。
せんだって「ローマの休日」を見に行った。この映画に限り一週間中午前十時開館というハナバナしさであるから、人気のほどがわかる。早めに行くに限ると考えて映写開始十五分前の朝っぱらに映画館へ到着した。
さすがに自転車がまだ十台ぐらいしかない。すると中の人間は二三十人ぐらいだ。早すぎたかとテレながら切符をもとめて館内にはいると、ほぼ満員ではないか。
私は息をのんだ。みんな女だ。まれに男がいる。アベックだ。私のように一人の男、まして年配の男なんていやしない。敵のように見つめられた。私は幸に座ることができたが、私の右も左も赤チャンをだッこした若奥サンであった。赤チャンを泣かさぬためにおびただしい食糧その他をケイタイし、用意オサオサ怠るところがなかったのである。
私の知る限り、ヘプバーンは桐生市の映画館において人間と自転車の比率を狂わせた最初の人である。
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私の読んだヘプバーン批評のうち、最も的に当っているように思ったのは日比谷映画劇場の報告だ。それによると、ヘプバーンは少女歌劇の男役の人気だというのである。観客の多くが少女歌劇の愛好者層であったと報じられている。
「ローマの休日」の筋そのものがそっくりタカラヅカではないか。女王さまが平民の娘になりすまして催眠薬でフラフラしながら男の部屋で「着物ぬがせてえ」「もう、さがってよろしい」なぞと言う。見物の娘サン若奥サン方はドッとドヨメキを起して大よろこびであるし、老人の私はやや情なくなって孤独を感じる。
どうやら西洋にもタカラヅカ時代がきたらしい。敗戦国の文化が戦勝国を征服するという先例は少なくないが日本少女歌劇はあちらで成功する可能性はあるようだ。
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私はヘプバーンは好きではないが、マリリン・モンローは大好きである。モンローウォークという歩き方を取去ると残るものは清潔なあどけなさで、モンローぐらい不潔感の感じられない女優はめッたにないように思う。
モンローウォークというもので人の世の怪しさ醜さの底をついているから、その残りのあどけなさ無邪気さが安定していて、危ッかしさが感じられないのだ。
ヘプバーンのようなのッけからのあどけなさ無邪気さには安定感がない。いつくずれるか分らない危ッかしさがつきまとっている。それは少女歌劇のファンそのものにつきまとっている危ッかしさでもある。
マリリン・モンローは大人に無邪気な安らぎを与えてくれる女性美で、そしてそこに性欲は感じられないのである。たとえ彼女自身の正体がどうあろうとも。
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私の家の裏に小学校がある。そこに特殊児童の特別教室がある。つまり知能が低くて学問のできない子供たちの教室だ。彼らには運動場はいらない。なぜならスポーツをする能力もないからだ。悪事をする能力もない。ただ無邪気で、かわいい。私はその教室へ散歩に行くのが好きだが、鏡子チャン事件以来、怪しまれそうで何となく小学校の門がくぐりづらいのは情ない。
カタワの子ほどかわいいというが、その子らの親たちもかわいくて仕方がないらしく、みんなまるまるふとっているので、親の心も察せられて悲しいのである。
この教室に飾られている彼らの絵は清クンと同じ流儀の絵である。他の画風を教えてみると他の描き方もするように思うがどうだろうか。清クンの絵はアンリ・ルッソオの作風によく似ているが、ここの特殊児童のまるまるふとった風ぼう容姿がどことなくアンリ・ルッソオその人にホウフツたるオモムキがあって笑いたくなるのである。
現代の絵は五千年も昔のお墓の壁画や、なおそれ以上に白痴の作品に似ているが、現代人の美の好みも美人の好みも白痴美一辺倒的のオモムキがあるようだ。マリリン・モンローやヘプバーンへの圧倒的な人気などがそれである。白痴美だ。そして、あるいは美というものの限界もそのへんにあるのではないかと私は思った。
真善美の三位一体を人間そのものに求めると、白痴にでも突き当る以外に手がなさそうだ。真善美などと大そうなことを言ってみても、その具体的な限界は案外そのへんにしかないように思う。
しかし文学の宿題は白痴美を探すことではない。偽悪醜にモミクチャの人間をはなれるわけにいかないのである。
存在しない神社のお祭り
日本人は大体においてお祭好きである。キリストを拝んだことがなくてもクリスマスのお祝は盛大にたのしむ。何神サマでもかまわない。お祭には目がないというヤジウマぞろいである。この七月十四日に田舎の高校
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