現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない」(当麻)
彼が世阿弥の方法だと言つてゐるところがそつくり彼の方法なのであり、彼が世阿弥に就いて思ひこんでゐる態度が、つまり彼が自分の文学に就いて読者に要求してゐる態度でもある。
僕がそれを信じてゐるから、とくる。世阿弥の美についての考へに疑はしいものがないから、観念の曖昧自体が実在なんだ、といふ。美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない。
私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦《また》人なり」といふ文章の解釈をだされて癪にさはつたことがあつたが、こんな気のきいたやうな軽口みたいなことを言つてムダな苦労をさせなくつても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言へばいゝぢやないか。かういふ風に明確に表現する態度を尊重すべきであつて日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するやうに心掛けることが大切だ。
美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つ
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