まへば、作品はそれによつて限定され、定められた通路しか通れなくなる。然し本当の小説といふものは、それを書き終るときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ、と、これは文学技師アンドレ・ジッド氏の御意見だ。ちなみにジッド氏は文学に通暁し、あらゆる技法を心得、縦横に知識を用ひ、術をつくし、ある時は型を破つて、小説をつくる技師であるが、本当の小説家だとは私は思つてゐない。ジッド氏が自身の小説に於いて、自我を創造、発見したか、私は疑問に思つてゐる。
 わが教祖、小林氏も芸術は自我の創造発見だと言ふのである。紙に向つた時には何もない。書くことによつて、創造され、見出されて行くものだ、と言ふのだ。私も大いに賛成である。
 然し、紙に向つて何もないといふことは自分に就いて何も知らないといふことではない。ある限度までは知つてゐる。自分といふものをある限度まで知悉しない人間が、小説を書ける筈のものではない。一応自分といふもの、又、人間といふものに通じてゐなくて、小説の書けるわけはないのだ。尚、そのうへに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら、作家といふものは、今ある限度、限定に対して堪へ得ない
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