現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない」(当麻)
彼が世阿弥の方法だと言つてゐるところがそつくり彼の方法なのであり、彼が世阿弥に就いて思ひこんでゐる態度が、つまり彼が自分の文学に就いて読者に要求してゐる態度でもある。
僕がそれを信じてゐるから、とくる。世阿弥の美についての考へに疑はしいものがないから、観念の曖昧自体が実在なんだ、といふ。美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない。
私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦《また》人なり」といふ文章の解釈をだされて癪にさはつたことがあつたが、こんな気のきいたやうな軽口みたいなことを言つてムダな苦労をさせなくつても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言へばいゝぢやないか。かういふ風に明確に表現する態度を尊重すべきであつて日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するやうに心掛けることが大切だ。
美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つて、これはこれで意味に即してもゐるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思ひこんで取り澄してゐる態度が根柢にある。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑はしいものがないのだから、と言つてゐるのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑はしいものがないといふことで支へてきた這般《しやはん》の奥義を物語つてゐる。全くこれは小林流の奥義なのである。
あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまつたから、人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまふともう剣などは握らなくなり、道のまんなかに荒れ馬がつながれてゐると別の道を廻つて君子危きに近よらず、これが武芸の奥義だといふ、悟道に達して、何々教の教祖の如きものとなる。小林秀雄も教祖になつた。
然し剣術は本来ブンナグル練磨であり、相手にブンナグラレル先に相手をブンナグル術で、悟りをひらく道具ではなかつた。けれども小林秀雄のところへ剣術を習ひに行くと、剣術など勉強せずに、危きに近よらぬ工夫をしろ、それが剣術だと教へてくれる。これが小林流といふ文学だ。
「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例《ため》しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)とくる。
だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退《の》ッ引《ぴ》きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有《おつしや》る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
「歴史の必然」か。なるほど、歴史は必然であるか。
西行がなぜ出家したか、などいふことをいくら突きとめようたつて、謎は謎、そんなところから何も出てきやしない、実朝がなぜ船をつくつたか、そんなことはどうでもいゝ、右大臣であつたことも、将軍であつたことも、問題ではない、たゞ詩人だけを見ればいゝのだと仰有る。
だから坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。
ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せ
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