要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。
自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。
文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にたゞ自分が生きるといふことだけだ。
良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたといふ兼好法師はどんな人間を見たといふのだ。自分といふ人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたつて何も見てゐやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力といふものが見えなければ。
人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。
小説なんて、たかゞ商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。第二の人生といふやうなものだ。有るものを書くのぢやなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駈けだし、そして跳びあがる。だから墜落もするし、尻もちもつくのだ。
美といふものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支へとなるもので、よく見える目といふものによつて見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。無慙なものだ。不幸なものだ。人間がさういふものなのだから。
小林はもう悲しい人間でも不幸な人間でもない。彼が見てゐるのは、たかゞ人間の孤独の相にすぎないので、生きる人間の苦悩といふものは、もう無縁だ。そして満足してゐる。骨董を愛しながら。鑑定しながら。そして奥義をひらいて達観し、よく見えすぎる目で人間どもを眺めてゐる。思想にも意見にも動きやしない。だからもう生きてゐる人間どものやうに、何かわけの分らぬことをしでかすやうなことはないのだ。そのくせ彼は水道橋のプラットホームから落つこつたが、彼の見えすぎる目、孤独な魂は何と見たか。なにつまらねえ、たとへ死んだつて、オレ自身の心は自殺と見たつていゝぢやないか。なんでもねえや。
自殺なんて、なんだらう。そんなものこそ、理窟も何もいりやしない。風みたいに無意味なものだ。
女のふくらはぎを見て雲の上から落つこつたといふ久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何といふ相違だらう。これはたゞもう物体の落下にすぎん。
小林秀雄といふ落下する物体は、その孤独といふ詩魂によつて、落下を自殺と見、虚無といふ詩を歌ひだすことができるかも知れぬ。
然しまことの文学といふものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美といふものではないか。
落下する小林は地獄を見たかも知れぬ。然し落下する久米の仙人はたゞ花を見ただけだ。その花はそのまゝ地獄の火かも知れぬ。そして小林の見た地獄は紙に書かれた餅のやうな地獄であつた。彼はもう何をしでかすか分らない人間といふ奴ではなくて教祖なのだから。人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第六号」
1947(昭和22)年6月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第六号」
1947(昭和22)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年3月22日作成
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