か。
芸術は長し、人生は短しと言ふ。なるほど人間は死ぬ。然し作品は残る。この時間の長短は然し人生と芸術との価値をはかる物差とはならないものだ。作家にとつて大切なのは言ふまでもなく自分の一生であり人生であつて、作品ではなかつた。芸術などは作家の人生に於いてはたかゞ商品にすぎず、又は遊びにすぎないもので、そこに作者の多くの時間がかけられ、心労苦吟が賭けられ、時には作者の肉をけづり命を奪ふものであつても、作者がそこに没入し得る力となつてゐるものはそれが作者の人生のオモチャであり、他の何物よりも心を充たす遊びであつたといふ外に何物があるのか。そして又、それは「不正なる」取引によりたゞ金を得るための具でもあり、女に惚れたり浮気をしたりするためのモトデを稼ぐ商品であつた。
余の作品は五十年後に理解せられるであらう。私はそんな言葉を全然信用してゐやしない。かりにアンリベイル先生はたしかにさう思ひこんでゐたにしたところで、芸術は長し人生は短し、そんなマジナヒみたいな文句を鵜呑みにし真にうけてゐるだけで、実生活では全然それを信じてゐないのが人の心といふものである。死んでしまへば人生は終りなのだ。自分が死んでも自分の子供は生きてゐるし、いつの時代にも常に人間は生きてゐる。然しそんな人間と、自分といふ人間は別なものだ。自分といふ人間は、全くたつた一人しかゐない。そして死んでしまへばなくなつてしまふ。はつきり、それだけの人間なんだ。
だから芸術は長しだなんて、自分の人生よりも長いものだつて、自分の人生から先の時間はこれはハッキリもう自分とは無縁だ。ほかの人間も無縁だ。
だから自分といふものは、常にたつた一つ別な人間で、銘々の人がさうであり、歴史の必然だの人間の必然だのそんな変テコな物差ではかつたり料理のできる人間ではない。人間一般は永遠に存し、そこに永遠といふ観念はありうるけれども、自分といふ人間には永遠なんて観念はミヂンといへども有り得ない。だから自分といふ人間は孤独きはまる悲しい生物であり、はかない生物であり、死んでしまへば、なくなる。自分といふ人間にとつては、生きること、人生が全部で、彼の作品、芸術の如きは、たゞ手沢品中の最も彼の愛した遺品といふ外の何物でもない。
人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必
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