といふことが、作家活動の原動力でもあるからだ。
 モオツァルトの作品は殆どすべて世間の愚劣な偶然な或ひは不正な要求に応じてあわたゞしい心労のうちになつたもので、予め目的を定め計画を案じて作品に熟慮専念するやうな時間はなかつたが、モオツァルトは不平もこぼさず、不正な要求に応じて大芸術を残した。天才は外的偶然を内的必然と観ずる能力が具はつてゐるものだ、と言ふ。それはモオツァルトには限らない。チエホフの戯曲も不正な要求に応じて数日にして作られ、近松の戯曲もさうだ。ドストエフスキーも借金に追はれて馬車馬の如く書きまくり、読者の嗜好に応じてスタヴロオギンの歩き道まで変へて行くといふ己れを捨てた凝り方だ。いかにも外的偶然を内的必然と化す能力が天才の作品を生かすものだ。
 然しながら、作品に就いて目的を定め計画を案じ熟慮専念する時間がなくとも、少くとも小説作者の場合に於いては、一応人間に通じてゐることは絶対の条件であり、人間通の裏附は自我の省察で保たれるもの、そして常に一つの作品を書き終つたところから、新らたに出発するものだ。一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとゞまつてはゐられず、不満と自己叛逆を起す。ふみとゞまつた時には作家活動は終りであり、制作の途中に於いても作家をして没頭せしめる力は限界をふみこし発見に自ら驚くことの新鮮なたのしさによる。
 生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖といふのは思ひつきの言葉ではない。
 彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然といふ自分勝手な角度によつて、彼はもう文学や詩人と争ひ、格闘することがないのである。争ふとか格闘するといふことは、自分を偶然の方へ賭けることだから、彼はもう偶然などは俺にはいらないといふ悟りをひらいてゐるのだ。詩人のつとめて隠さうとし忘れようとしたものを暴くのは鑑賞のためや詩人を解するためではなく、自分の仮面をはがさうとする同じ働きが他へ向けられただけのことで、普遍的な真理といふやうなものを暴くんぢやない。仮面を脱ぐといふことも真理を暴くといふのぢやなくて、たゞさうせずにゐられぬからだといふやうな罰の当つた苦悩格闘、そんなものはもう小林には用はない。
 常に物が見えてゐる。人間が見
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