あり、型、公式、常識そのものなのだ。
生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。
人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。
だから小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である。
西行も実朝も地獄を見た。陰惨な罪業深い地獄、物悲しい優しい美しい地獄。そして西行の一生は「いかにすべき我心」また、孤独といふ得体の知れぬものについての言葉なき苦吟をやめたことがなかつたし、実朝は殺されたが然し実朝の心はこれを自殺と見たかも知れぬ、と言ふ。まさしく、その通りだ。邪教も亦、真理を説くか。璽光《じこう》様が天照大神《あまてらすおおみかみ》の生れ変りの如くに。
「西行はなぜ出家したか、その原因に就いて西行研究家は多忙なのであるが、僕には興味がないことだ。凡そ詩人を解するには、その努めて現はさうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとして隠さうとしたところを詮索したとて、何が得られるものでもない」(西行)
そして近代文学といふ奴は仮面を脱げ、素面を見せよ、そんなことばかり喚いて駈けだして、女々しい毒念が方図もなくひろがつて、罰が当つてしまつたんだ、と仰有る。
然り、詩人を解すには、詩を読むだけで沢山だ。こんなこともした、こんな一面もあつた、と詮索して同類発見を喜んだとこ
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング