の言葉を思いだしたからであった。全身から冷汗がふきだしていた。
 緒方にあのことを言われてから、光也は緒方のことを思うたびに半病人になった。思わず目マイがしてスッと血の気がひくのである。
 緒方の講義にでることができなくなったばかりでなく、校庭でランニングの練習もできなくなった。緒方とカチ合う不安があるからであった。
 しかし、郊外にある市営競技場まで練習にでかけた。スポーツの練習を怠ると、その一日不眠や食慾減退や疲労や精神不統一に悩むからであった。そのかわり、柔道の練習を中止した。ランニングと柔道を一しょにやることができなくなったのである。
 彼は一週間ほど練習を休んだのち、責任を感じて、正式に退部を申しでた。次の学期から彼は副将に予定されていたからであった。
 部長は彼をよんだ。
「なぜ退部するのか」
 光也は本心をあかすことができなかった。
「一身上の都合です」
「どんな都合か」
「柔道はもうやれません」
「なぜやれないのか」
「思想の悩みもあります」
「悩みを語ってきかせよ」
「柔道はやるべきではないです」
「なぜ柔道をやってはいかんのだ。つまり、戦争反対かな」
「一身上のことです。身体に悪いです」
「病気なのか」
「イエ。しかし、病気になってはイカンと思っています」
「当り前だ。誰だってそう思っているから、運動をやって身体を鍛えるのだ。ランニングもやめたのか」
 こう問いつめられると、仕方なしに彼の目から凄く大きな涙の玉がポロリところがり落ちた。彼は窮したのである。
 ランニングと柔道という二ツを同時に思い浮べても羞恥に悩むようになっていた。だから、ランニングを選んだために柔道を捨てなければならないという心底を打ち開けることは絶対的に不可能であった。どっちか一ツを捨てるとすれば、たぶんランニングよりも柔道の方が泥棒泣かせに近づいているだろうというような思弁をどうして人に打ち開けることができよう。
 しかし、部長は追求をゆるめるわけにいかなかった。
「ランニングはやめないのだな」
「…………」
「両立しないのか」
「…………」
「今まで両立したではないか」
 何より苦しいところであった。彼は彼の叔父が村長を辞退するときに云った言葉を思いだして、釈明の辞にかりた。
「ボクもトシですから……」
「お前がトシだって!」
「ハ?」
「いくつだ?」
「息切れがするので
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