らなかった。貧乏もここまでくると、気も強くなる。不意打ちの意外さをのぞけば、さしたる被害でもなかった。
「刀おれ矢つきたり、かね。しかしゲンコと竹槍はあるらしいや。今や追いつめられたる日本軍ですよ。しかし、原子バクダンにしては、小さすぎたな」
 と、せせら笑った。
「でも、こまるでしょう」
「こまっているのは、いつもの話さ。今さら、こまることはないやね」
「いいえ。こまる、とおッしゃい」
「ハッハ。あなたも貧乏人だから、この心境はわかるはずだがなア。焼石に水ッて云うでしょうがね。アレですよ。今のぼくには、十円から百万円までは同じゼロですよ。貧乏人にとっては、必要とする金額まではゼロなんだね。お金持みたいに、借金を貯金するわけにはいかないらしいよ」
「でも、あるものが、なくなれば、こまるでしょう」
「焼石に水はマイナスの場合にも当てはまるらしいね」
「こまるとおッしゃい。おッしゃらなければダメなんです」
 礼子の顔は怒りにひきしまった。
「あなたは虚勢のために自滅しているのよ。虚勢のために、真実を見ることができないのです」
「ハッハ。それは、あなたも同じことでしょう」
 青木はくすぐったそうに笑って、
「あなたは貧乏すらも自覚しようとしないようだね。それは、そもそも虚勢以外の何ものですか」
 礼子はあきらめた。そして、涙がにじんだ。憎しみがあふれて、たえがたくなった涙であった。
 礼子のハンドバッグには九万五千円ほどの金があった。持ち物の殆ど全部を売り払って得た金である。どう使うという目的は定まっていないが、最後の軍資金である。戦うための金だ。そして、これを使い果しても戦果がなければ、最後の覚悟を定める時であった。
 礼子は青木の不在の部屋を訪れて、戸田の置き残した手紙をよみ、青木のあまりの窮状に、自分の窮状を忘れた。彼を窮地から救うために、最後の軍資金の半分をさいてやろうと考えていたのである。
 その思いが切なすぎて、礼子の怒りがかりたてられた。
「北川さんから千円おかりしなかったのが虚勢だとおッしゃるのですか。虚勢ではありません。覚悟です。覚悟があるからです。でも、どんな覚悟だか、私も知らないのですけど、ね。誰だって、本当に覚悟をきめたときは、どんな覚悟だか知らないものなのよ。あなたには覚悟の切なさもお分りでないのよ」
 礼子はハンドバッグをかかえて立ちあがった。
 青木はその激しさに見とれていたが、
「それはいけないよ。覚悟ほど人生をあやまらしめるものはないからな」
「あやまるのが人生なのです」
 礼子は言いすてて、立ち去った。
 しばらくして、青木は後を追うために、フッと立ちかけたが、ためらって、坐りこんだ。しばしボンヤリしていたが、
「その覚悟なら、オレの無二の友だちなのさ。お前さんも、とうとう、そうなのかな」
 彼は顔をおうて、泣いていた。

       六

 せつ子は放二と記代子に新しくおこすはずの出版事業の抱負をきかせた。
 宇賀神の噂は明日にも二人の耳にとどくだろうが、わざとそれを隠して、
「金主のことではいろいろのデマがとぶでしょうけど、デマを利用する方が賢明なのよ。あなた方も、当分はデマを信用してちょうだい。ただね、私には数千万円うごかす力があるのよ。これだけは、真実。ひょッとすると、一億ぐらいまで、ジャン/\資金がおろせるのよ。すばらしい記念日でしょう」
 これだけはカケネなしの本音であった。全身から歓喜があふれでるほど、快感がたかまっているのだ。
「さア、のんで。放二さん。記代子さんもよ。なんとか祝辞おッしゃいよ。あなた方」
 せつ子の浮きたつ様を放二はまぶしそうにうけとめて笑った。
「あんまり幸福そうですから、不安になるんです」
「幸福すぎちゃアいけないの?」
「それに越したことはないのですけど、マサカの時を考えて、程々にしておくことが大切だろうと思うのです」
「ずいぶんジミだわね。あなた、いくつになったの」
「ぼくは無邪気になれないのです」
「からかわれてるみたいね。坊やにませたことを云われるのは、変なものだわよ」
 目で同意をもとめると、記代子も笑って、こたえた。そのキッカケを捉えて、せつ子は話題を変えて、
「わが社の出版計画の一つに大庭先生の全集を考えてるのですけど、どうかしら。放二さんが引きうけて下さるなら、出版部長におむかえしたいのよ。記代子さんにもよ。お力添え、おたのみするわ。お二人をわが社の幹部社員におむかえするつもりよ」
 放二はしばらく返事につまっていたが、
「先生と出版書肆とのツナガリには古い来歴があるらしくて、ぼくなどにはその片鱗も分っておりません。ぼくの力では、先生に原稿をお依頼するのも容易ではないのですから、全集出版のことなどは、とても力が及びかねると思います」
 すると
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