あなたは、あなた自身の責任を感じ、あわせて、彼女を無事保管の任を完《まっと》うせるぼくに向って感謝の意を表して然るべきではないですか。あなたの態度は常にあなた自身の感情に即してはいるが、物の当然しかるべき理に即してはいませんな。けだし、記代子嬢があなたの邸宅を逃げだしたのも、直接の原因は、そのへんにありと見たのはヒガメですか。どうもね、とかく御婦人は暖冷ただならぬものではあるが、あなたは格別だね。その冷たるや、冷血動物以下、ぼくがツラツラ案ずるに、大そう水ムシによく似ているです。足にできる水ムシのことですよ。あいつは痛くもカユくもないが、実に無残に肉にくいこみ、一生涯、なんとしても治らんです。実に、一生涯ですよ。死ぬまでですよ。死んでからでも、足の指のマタにハッキリくいこんでまだ生きているのですよ。見たわけじゃアないがね。そうに、きまッてらア。実に、人生に最も酷薄なるものは、水ムシの如くに、痛くもカユくもないです。そして生涯、死んでからでも、肉にくいこんで、かみついているです。けだし、あなたは、水ムシだね。実に酷薄ムザンだね。小娘はジタバタするのが当然さ。痛くもカユくもないという生涯ムザンの酷薄なるものに、ジッとこらえていられるのは、拙者、つまり蛙、イケシャアシャアね。それあるのみさね」
せつ子はちっとも騒がず、
「そう。記代子さんを無事保管していただいて、ありがとう。いま、どこにいますか、記代子さんは」
「その御返事はハッキリおことわり致しますよ。彼女は、あなたとは縁なき衆生です。たぶん、ぼくと彼女とも、多かれ少なかれ縁なき間柄であるらしいようですがね。念のために、それだけはお伝えしておきます。ぼくは彼女を路傍の一人として保護いたしておるにすぎません。今や、なんの親密なる関係もありませんや。ぼくは只今より彼女を京都の叔父なる人のもとへ送りとどけてきます。その旅装のために戻ってきたのです。彼女は今夜は京都の叔父のもとに無事安着するに相違ありませんから、だまって引きとっていただきましょう。言語無用。だまったり。だまったり」
八
せつ子は事の判断に於ては、感情に走ることはなかった。青木の意向が、記代子を無事長平のもとへ送りとどけることに専一であると見てとったから、
「わかりました。本当にお世話様ですね。では、御手数でも、おねがい致しますよ。大庭先生に、よろしくね」
青木は思わずホッとして、のぼせた頭に、血がクラクラと離合集散、彼は冷汗をふいて、冷茶をグッと一パイのみほした。
「ヤ。どうも、ありがとう。理解していただいて、幸福です。そういっていただくと、穴があれば、はいりたいですよ。なに、それほどでもないですか。ハッハ。あなたは処世の達人さ。女ながらもアッパレさね。ぼくもね。三方損の三人目とか、覆水盆にかえらずとか、近代イソップ物語の原理についてウンチクをかたむけたいところがあるですが、今日は急ぎますから、失礼します。御無礼の段、平に御容赦」
青木がこう言い残して別れようとすると、せつ子はよびとめた。
「お待ちなさい。車がありますから、東京駅まで送ってあげるわ」
「ヤヤ。それは、いけませんね。無茶なことをおッしゃるなア。後で八ツ当りにやられるのが、ぼくですよ。八ツ当りならよろしいが、三たび姿がかき消えまさアね」
「その心配はありません。第一、東京生活をきりあげて帰郷なさるのに、オミヤゲも買ってあげなければいけないでしょう。その機会がなければとにかく、機会があって、手ブラで帰せると思いますか」
一々もっともである。自分の家から失踪したまま京都へ戻ってしまうのを黙って見過すということは、後味の悪い話である。せつ子に、記代子の帰郷をひきとめる意志のないのが分っているから、青木は彼女の気持も尊重してやる必要があると思った。
「わかりました。おッしゃることは、ごもっともです。ですが、くれぐれも御手ヤワラカにねがいますよ」
記代子の宿へ案内した。二人をどんなふうにひきあわしたものかと青木が思案していると、せつ子は委細かまわずズカズカと先頭に部屋へ通って、
「アラ。記代子さん。御無事でよかったわ。京都へお帰りですッてね。ほんとに、それが何よりよ。何をプレゼントしましょうね。銀座の商店は、ちょッと開店に間があるから、デパートから廻りましょうよ」
デパートをまわり、銀座を廻り、出来合いではあるが最新型の高級服を買って、着代えさせる。帽子、靴、ハンドバッグに、その中の品々まで一式。トランクも買いこんで、身の廻りの品々。フランスの香水に至るまで。右往左往、ひきずりまわされる青木は、アア、大変な買物だ、この支払いだけでも、わが社の会計係は月末に一苦労だなア、桑原々々、とついて行く。
最後に二人を大阪行特急の二等車へ送りこん
前へ
次へ
全100ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング