の時は、敵意満々のようでしたけどね。敵意があるなら、他のことを言わなくとも、必ず言わなければならない言葉があったはずです。私は昨日まで、あの方がニンシンしていらしたこと、知りませんでした」

       十一

 ともかく、心理の足跡が、うかびでてきた。失踪の十日ほど前までの約十日間、記代子は毎日ただ一人で礼子のバーへ現れているのである。そして、礼子に向って、あなた、おもしろいの? つまんないでしょう、と言いかけるほかには押し黙っていた。そして、ニンシンについては、一言も、もらさなかった。
 失踪の十日前。……
 記代子が克子に会ったころだ。そしてその時はアベコベにニンシンを主に語っているのだ。克子からダタイの医者を教えてもらっているのである。
 そのころ、記代子と青木との仲は、どうだったろう? 二人の間に何かあったのだろうか? それを青木にたしかめることは、いけないことだろうか、と、せつ子の言葉を思いだしながら、放二は考えた。
 社のひけは、規則はないが、サンマータイムの六時ごろだ。編集部とちがって、作家まわりが少いから、ひけ時まで部員の顔はあらかた揃っている。青木と記代子も例外ではない。二人はそろって、姿を消す。
 放二が記代子と一しょのころは映画を見たり、ビンゴをやったり、喫茶で休んだり、歩いたり、ごく月並な二三時間をすごしたにすぎない。放二自身はお酒をのまなかったが、二人のほかに飲み助のつれがあって、お酒をのむようなときには、たいがい駅にちかいマーケットのカストリ屋へ行った。フトコロのせいだけではなく、記代子がそこへ行きたがるのだ。人間の本性をムキダシにしたような猥雑な場所が珍しくて、又、酔漢にジロジロみられたり、話しかけられるのが愉しそうであった。すると記代子はいつも放二に寄り添って、放二以外の誰れのものでもないようにふるまうのが、うれしいようであった。
 放二は踊れなかったが、青木のダンスはステップが美しいので、社内でも有名だった。彼が留学中に覚えたダンスで、リズムにのる姿勢や特に肩の角度やうごきがヨーロッパ風に古風で典雅であった。記代子もダンスが好きであった。二人がホールで踊っているという噂は、放二もかねて聞いたものだ。退社後の青木と記代子の行動は、そのへんまでは見当がつくが、あとは分らない。
「ノクタンビュールへは、たいがい、幾時ごろ行かれたのでし
前へ 次へ
全199ページ中95ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング