死の要求を拒絶するばかりでなく、拒絶につけたして、人格の絶対の否定と軽蔑を目に浮かべるに相違ない。キミ子はそれを知つてゐた。太平はたゞ肉体に挑む野獣で、人格を無視してゐるが、肉慾のみの妄執が人格や偶像を削り去ることにより、動物力の絶対的な執念に高まるものであることをキミ子は嗅ぎつけてゐる。その妄執は生ある限り死ぬことがなく、肉体に慕ひ寄り威力に屈した一匹の虫にすぎないことを見抜いてゐた。
太平は死に得ぬことのあさましさと肉慾の暗さに絶望し、その憎しみと愛慾の未知の時間の怖れのために苦悶した。
けれどもキミ子は立ち去つた。小さなトランクを置き残して。友達を訪ねてくるからといひ、今夜は帰らないかも知れないわ、といひ残して。そのとき彼はチラと不安に襲はれたが、それをどうすることもできなかつた。三日たち、五日たち、十日たち、キミ子は帰らなかつた。
★
太平はさうせずにはゐられない力に押されて庄吉を訪ねた。もしやそこにキミ子がゐるかも知れぬといふことが希ひであつたが、同じ苦悶を見つめてゐる庄吉の顔を見ることがせめての希ひの一つでもあつた。キミ子はそこにもゐなかつた。
「生方さん。外を歩いてみないか。歩きながら話したいこともあるのだが」
庄吉はついでに仕事に行かうといつて、洋服に着換へ、カバンを下げて出てきた。芝浦の岸壁の方へでて、太平はキミ子が彼のもとにゐた顛末を打ちあけた。
「その引越したあとへ俺は一度君を訪ねて行つたのだ」
それから庄吉は長いあひだ無言に肩を並べて歩いてゐた。
「あゝ!」
たまりかねた小さな呻き声が庄吉の口からもれた。庄吉は緩かに片手を顔に当てた。庄吉の腸をつきぬけて出る棒のやうな何物かがあつたやうな気がすると、彼の顔には壮烈に涙が走り、彼は鞄を落してゐた。
庄吉は狂つたやうに太平にとびかゝつた。太平の喉を押へて両の拳《こぶし》でグイグイ突きあげた。
「この野郎! この野郎! この野郎!」
太平は倉庫のコンクリートに押しつけられて、拳に頤《あご》を突きあげられてゐた。その痛さに一瞬気を失ひさうになりかけたが、その時チラと見た泌みるやうな青空の中に、キミ子の真白な腕と脚を見たのであつた。
庄吉は手を放すと、今度は倉庫のコンクリートを両手で押してゐるやうな姿で身体を支へて、呼吸ををさめながら暫く茫然としてゐた。太平は青
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