評判の本を読んだことがあつた。「ひとりごと」も大変評判が良いといふことを立野さんからうかゞつたが、かういふものが評判を得るといふことは賀すべきことだと思はれない。
ひねくれた人間のナマ身のひねくれた観察自体などゝいふものは、蟹のアブクが蟹のアブク自体であるといふことゝ同様、たゞそれだけの奇妙な景観であるにすぎない。「春日」といふ作品は傑作であるが、中戸川とみゑといふ人間自体が「春日」ではないので、「薔薇は生きてる」などゝいふコマッチャクレたアブクはむしろ醜悪であり、私はたゞ厭な子供だな、と思つたゞけだ。
ひねくれた観察などは何等文学本来の価値ではないので、たゞ日本には珍らしいといふだけ、珍らしい果実は、その果実の中味が真に美味であるといふことゝ関係はない。
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独といふ必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないといふ崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況《いわん》や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、又、私自身神サマにならうなどと夢にも考へてゐないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛してをり、又、私自身が悪人でもあるのである。けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。
文学とは人間の如何に生くべきかといふ孤独の曠野の遍歴の果実であり、この崖に立つ悪の華だが、悪自体ではない。
私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタ/\に引き裂いてやりたい。そしてもし縫ひ直せるものならすこしでもましなやうに縫ひ直したい。
私は自分を引きさいて少しでもましなものに縫ひ直さうと小説を書くのだけれども、私の本性までケチであり、職人の腕がだめだから、厭らしい浅ましい姿だけしか書けなくて私はいつも絶望の一足手前でふみとゞまつてゐるだけだ。
私はナマ身の自分が嫌ひだから、ナマ身の他人、悪人も嫌ひだ。「ひとりごと」のやうなものは、私は人に見せないで、隠しておきたいと思ふ。私だつたら、とみゑさんの遺言通り焼きすてる。
「ひとりごと」だの「薔薇は生きてる」などを愛読する人はきつと「善人」なのだと私は思ふ。自分を厭がつたことがなく、汚らしがつたことがなく、人まかせにのんびり暮してゐるから、悪人の悪相が汚らしくも厭でもなく、面白かつたり、珍しかつたり、うがつてゐたり、たのしいのだらう。だが、こんなものは本当の文学ではない。たゞの薄汚いアブク、テンカンのアブクみたいなものだと私は思つてゐるだけだ。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「雑談 第一巻第五号」白鴎社
1946(昭和21)年9月1日発行
初出:「雑談 第一巻第五号」白鴎社
1946(昭和21)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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